【11月22日 AFP】セルビア人の女の子として育ったミラ・ヤンコビッチ(Mila Jankovic)さんの人生が一変したのは2008年、17歳のときだった。それまで培ってきた自分のアイデンティティーがすべて誤りだったと知り、死を望んだ。

 セルビアの首都ベオグラード(Belgrade)でセルビア人として育ったミラさんは、自分が養女であることは以前から知っていた。そして16歳のとき、養子の多くが経験するように、「自分が誰なのか知りたい」という思いが抑えきれなくなった。

 セルビアの社会福祉機関は、DNA鑑定によりミラさんの実の父親を探し当てた。対面したのは、面会できると知らされたほんの数時間後だった。

   「実父のムハメド(Muhamed)が来て、教えてくれました。わたしの名前はミラではなく、セニーダだと」

■実は「敵の子」――真実に「殺されたほうがまし」

 実父が告げたのは、彼女はボスニア東部で生まれたイスラム教徒で、本来の名はセニーダ・ベシロビッチ(Senida Becirovic)だという、ショッキングな事実だった。「セニーダ」は、セルビア人とイスラム教徒(モスレム人)、クロアチア人とが対立して戦った1992~95年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の間に行方不明となっていたのだ。

   「聞いた瞬間は、殺されたほうがましだと思いました」。丸顔に大きな緑の目、長いブラウンの髪が印象的なミラさんは、AFPの取材に胸のうちを明かした。

 ボスニアの行方不明者捜索当局によると、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で行方が分からなくなった子どもの人数は推計2000人以上。うち、およそ半数の遺体が共同墓地で見つかったという。

 生存して身元が確認されたのは、これまでにミラさんただ1人だ。

■1人のセルビア人兵士が救った命

 1992年、生後9か月だった「セニーダ」は、ボスニア東部のCeparde村をセルビア人が制圧した際、炎上する自宅の中で見つかった。母親や3歳だった姉など、女性や子どもを含む多くの村人が連れ去られ、それきり消息を絶った。父ムハメドさんだけが、村を不在にしていて命拾いした。

   「セニーダ」を発見したセルビア人兵士は、彼女を助け出し、近くの村に住む自分の母親の家に連れて行った。ところが、この兵士はその後しばらくして戦死してしまう。「セニーダ」はいろいろな家をたらいまわしにされた後、セルビア人記者がセルビア紙ポリティカ(Politika)に書いた彼女についての記事を読んだベオグラード在住の中流階級の年配夫婦、ヤンコビッチ夫妻に引き取られた。

 幼い少女には「優しい」を意味する「ミラ」の名が与えられた。

■引き裂かれた家族、憎しみと愛情に揺れる心

 まだ十代のミラさんには、この残酷な過去の経験を受け止める余裕がない。

   「気持ちが整理できないのです。母や姉からわたしを引き離したセルビア人が憎い。でも、できる限りのことをしてわたしを育ててくれた2人もまた、セルビア人なんです。彼らに会えたことは本当にうれしい」

 真実を知ってから2年が経ち、書類上の名前をすべて実名に変更した今も、「ミラ」と呼ばれるほうが好きだという。「わたしにとって『ミラ』はあふれんばかりの愛を、『セニーダ』は戦争と苦難を意味しているのです」

 ミラさんは実の家族について知るため、ボスニアの首都サラエボ(Sarajevo)で母親の親族と暮らすことを選んだ。現在は、母と姉の行方を追っている。

 ドイツに住む父のムハメドさんとは、親密な関係を築けていない。(c)AFP/Katarina Subasic