【10月12日 AFP】「ようこそ、チェルノブイリへ」――。ガイドが、1986年4月26日に発生した史上最悪の原発事故の現場に観光客を案内する。手元の放射能測定器をちらりと見て、「放射能レベルは通常の35倍です」と告げる。

 事故からほぼ25年。放射能で汚染されたチェルノブイリ(Chernobyl)は今、一大観光スポットとなっている。米経済誌フォーブス(Forbes)が「世界で最もユニークな観光地」の1つに選んだこともあり、2009年には約7500人が訪れた。入場料は1日160ドル(約1万4000円)だ。

■廃虚の街にも

 ある日の風景。観光客を乗せた1台の小型バスが、特別な許可無く立ち入りを禁じている区域の入り口に止まる。バスを降りた観光客らは、被爆防止の諸規則を厳守する旨の誓約書を手渡される。「飲食ならびに喫煙は厳禁」「中のものには決してさわらないこと」「地面に座らないこと」「所持品を地面に置かないこと」などと書かれている。

 観光客らは、引きつった笑みを浮かべながら誓約書にサインする。心理学者だというベルギー人の若い女性は、「おじけづいた」ことを素直に認めた。「今履いている靴はここを出る時に捨てるわ」 
 
 一団は、現在はコンクリートで覆われている問題の原子炉に近づいていく。なお、コンクリートは所々ひび割れている。ガイドが携えた放射能測定器は、3.9マイクロシーベルトを指している。通常の0.12マイクロシーベルトの30倍以上だ。

 写真をひとしきり撮ったあと、廃虚と化したプリピャチ(Pripyat)の街に向かう。事故現場から3キロしか離れていないこの街はもともと、原発従業員とその家族の居住地として建設された。事故の翌日、住民5万人が一斉に避難した。

 この街では時が止まっている。遊園地のそばのさび付いた建物にはソ連時代の垂れ幕が下がっている。アパートの部屋には本やおもちゃの残がいが、学校の食堂の床にはおびただしい数のガスマスクが散乱している。教室の入り口の壁には、次週の時間割を記した紙が押しピンで留められたままだ。 

■チェルノブイリは「歴史の生き証人」

 オーストラリアから来たという若い女性は、「とても美しく詩的でもあるけれど、あの悲劇を思えば、写真を撮るのがためらわれます。のぞき見しているようで落ち着きません」と話したが、チェルノブイリを「歴史的な遺物」と考え、観光名所になったことを当然のように受け止めている観光客も多い。

「事故以来、ずっと、ここに来たいと思っていました。異様なことだとは思いません。人々が殺されたローマのコロッセウムやアウシュビッツとは何ら変わりません。近代史における極めて重要な1ページなのです」と、スウェーデン人観光客は話した。 

 チェルノブイリ原発事故では、ウクライナ(当時はソ連の一部)、ロシア、ベラルーシが広範囲にわたって汚染され、放射性降下物は欧州にも及んだ。ウクライナだけでも230万人が公式に被災者と認定されている。国連は2005年、死者を4000人と発表したが、NGOなどは「死者は数万から数十万人」だとしている。(c)AFP/Anya Tsukanova