【9月15日 AFP】社会主義国のベトナムで、欧米の哲学や政治思想、社会学に関する翻訳本の出版社は、常に検閲に気を配るなど、民主国家にはない苦悩を抱えている。

 欧米の思想史や哲学書を翻訳・出版するTri Thuc社は3年前、19世紀の仏政治・思想家アレクシス・ド・トクビル(Alexis de Tocqueville)の著書『アメリカのデモクラシー(Democracy in America)』の出版を計画していた。だが、タイトルの「デモクラシー(民主主義)」という言葉を当局が嫌ったことから、タイトルを『米国民の統治』に変更して出版した。

 さらに、これらの分野に長けた翻訳者や、思想・哲学書を読みこなす見識を持つ読者も不足しているという。

■哲学を学ぶことは国の発展に不可欠

 長期化したベトナム戦争に加え、現代のベトナム教育システムの不備が、その要因だとTri Thuc社の編集責任者、チュー・ハオ(Chu Hao)さん(70)は説明する。「ここで学ぶことができる思想は、マルクス・レーニン主義に関するもののみだ。よって、西洋の哲学や哲学史はベトナムの学生たちにとって、いまだに全くなじみのないものなのだ」。その結果、現代ベトナム人からは、西洋古典思想に関する普遍的価値観が欠如しているという。

 科学技術省の副大臣を務めた経験を持つハオさんは、「哲学に接することは自己の成長に不可欠な要素であり、その欠如は短長期的にも国の発展に悪影響をおよぼすだろう」と、ベトナムの将来を懸念する。

 Tri Thuc社は4年前の創立以来、18世紀の仏思想家ジャンジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)、同ボルテール(Voltaire)、19世紀の英哲学者ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)などの古典作品から、現代アメリカの言語学者ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)の著作まで、欧米の思想・哲学書100作品以上を翻訳、出版してきた。読者は学生や役人よりも研究者やビジネスマンが中心だという。

 Tri Thuc社など、ベトナムの出版社は、多かれ少なかれ国家組織の影響下に置かれているが、欧米諸国の在ベトナム大使館から財政援助を受けることもあるという。

■翻訳者不足も深刻

 Tri Thuc社が抱える問題は、党の検閲だけではない。欧州言語をベトナム語に訳すことができる翻訳者が不足しているのだ。

 現在、ベトナム人口の半数以上が30歳以下の若い世代だが、哲学や思想書の翻訳を手がけるベトナム人は、フランス統治時代を経験した60歳以上の人びとだ。若者の間では、フランス語よりも世界で幅広く通用する英語が圧倒的に好まれている。

 それだけでなく、知的なベトナム語を身につけたベトナム人も減っていると、ハオさんは嘆く。

■「異なる視点を受容できる」ことが重要

 ベトナム政府の社会主義政策に抵触するイデオロギーを提示する自由主義や民主主義に関する著作の出版にあたっては、政府と出版社間に、超えてはいけない暗黙のルールが存在する。

 社会主義に一部、市場経済を取り入れた「ドイモイ」(刷新)政策が1986年に導入されたとはいえ、出版物への検閲や政府の介入は今も続く。

 翻訳本の出版に干渉してくる当局者に対し、ハオさんは、異なる見識を受容することの重要性を説き、政府の方針にそぐわない書物が、必ずしも反動主義というわけではないと、辛抱強く説得を続けている。(c)AFP/Aude Genet