<senken h 106>自由に純粋に。工場は情熱が注げる場所/三原康裕 インタビュー
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【9月15日 senken h】「ミハラヤスヒロ(MIHARAYASUHIRO)」のデザイナー、三原康裕さんは09年8月、東京・墨田区に靴の工場を設立した。どんな製法の靴でも一貫して作れるだけの機械をすべて導入、職人は5人でスタートした。海外でもコレクションを披露するデザイナーが自ら工場経営に乗り出すのは珍しい。日本の製造業が疲弊する中で、あえてモノ作りに踏み込んだ理由とは。設立からちょうど1年経った工場で三原さんに話を聞いた。
—デザイナーが工場まで作るのは珍しいですが。
この頃ファッションの世界に明るい話題が全くないし、悪い話ばかりを聞くのも飽きちゃった。僕が気にかけている地場産業の衰退の問題も、後継者がいなかったり、中国にコスト競争力で太刀打ちできなかったりと理由は個々さまざまだけど、ひとくくりに語られるだけ。でも、確かにこれは、今までの生産の基盤が失われていくという一大事。僕の立場で言うと、このまま10年、20年経ったら、一緒にやってきた職人さんたちは間違いなくいなくなって、僕のしたいモノ作りができなくなるってこと。工場を作るのは自分の夢だった部分もあるけど、もうここまで来たら、モノ作りの現場を自分で作るしかない、って思った。もしかしたら、5年遅かったかもしれないですけどね。
—ファッションの世界も変化しています。
今は、デザイナーがマーケットを気にし過ぎていますよね。ファッションが好きでやっている人がどれだけいるんだろうか、と思うくらいの時代になりました。ニーズがあるから迅速に大量に作る、っていう仕組みで回っていて、原宿や表参道もファッションの店だけになっています。無理してあれを全部埋めようとするから、無駄な競争ばかりが激しくなり、価格も乱れ、最後は斜陽産業って言われることになるんですよ。
僕は昔から分母が小さいファッション産業が好きだった。例えば、人に嫌悪されるくらいのものを作ったとしても、それが広がっていくのがファッション文化だと思っていたし、今もそう信じている。工場を作ったのも、自由に純粋に、情熱を注いでいける場所を残しておきたいからなんです。
—工場は原点ということですか。
この世界に入ってからずっと疑問に思っていたのですが、ファッションの世界は、クラフトマンシップや生産という部分とリンクしていないんです。でも僕はモノ作りの内部にいた方が面白いし、いつも作り手の側にいることを意識していたい。自分の(デザインする)アイデアが枯れても、作る現場の近くにいれば何とかなると思っているほどです。
だから自分たちが作った工場で若い人や職人さんたちをできるだけ多く巻き込んで、クリエーションを続けていきたい。さらに言えば、自分のブランドだけに閉じ込めるのではなくて、近い将来、工場は独立させるつもりだから、彼らには工場発のブランドを立ち上げてほしい。こういう小さい工場が1つでも増えていけば、僕はうれしい。
—改めて、デザイナーの仕事とは。
自分が死んだ後のことを考えたら、デザイナーとしてのクリエーションの評価とか、会社に少しの利益を残せたとか、そんなこと大したことじゃない。これまでのファッション業界で言うデザイナーの仕事って、実質は企画問屋ですよ。物を実際に作り上げるのは工場という構図のままで、何がクリエーティブなんだろう? 本当の意味でクリエーティブって考えたら、企画問屋の仕事に何かをプラスアルファすることが必要なはずです。なかなか簡単ではないけど、理想は新たな道(方向性)を示唆するような仕事。ファッションには違うベクトルが必要だし、それを生み出していくのが、デザイナーの仕事じゃないかな。だから、(工場を作ると言う)ベクトルが新しいファッションになっていけばいいなと思う。(c)senken h
■みはら・やすひろ
1972年6月、長崎で画家の母とにわとり研究家の父との間の次男として生まれる。福岡で育ち、93年4月多摩美術大学デザイン学科テキスタイル学部入学。在学中から独学で靴作りを始め、大学卒業後シューズメーカーの設立に参加。98年9月、初の直営店「SOSU MIHARAYASUHIRO」を東京・青山にオープンする。05年1月にミラノメンズコレクション初参加後は、内外でのコレクションの披露、プーマや田崎真珠などさまざまな企業やブランドとの協業に取り組んでいる。
【関連情報】
◆特集:senken h 106
—デザイナーが工場まで作るのは珍しいですが。
この頃ファッションの世界に明るい話題が全くないし、悪い話ばかりを聞くのも飽きちゃった。僕が気にかけている地場産業の衰退の問題も、後継者がいなかったり、中国にコスト競争力で太刀打ちできなかったりと理由は個々さまざまだけど、ひとくくりに語られるだけ。でも、確かにこれは、今までの生産の基盤が失われていくという一大事。僕の立場で言うと、このまま10年、20年経ったら、一緒にやってきた職人さんたちは間違いなくいなくなって、僕のしたいモノ作りができなくなるってこと。工場を作るのは自分の夢だった部分もあるけど、もうここまで来たら、モノ作りの現場を自分で作るしかない、って思った。もしかしたら、5年遅かったかもしれないですけどね。
—ファッションの世界も変化しています。
今は、デザイナーがマーケットを気にし過ぎていますよね。ファッションが好きでやっている人がどれだけいるんだろうか、と思うくらいの時代になりました。ニーズがあるから迅速に大量に作る、っていう仕組みで回っていて、原宿や表参道もファッションの店だけになっています。無理してあれを全部埋めようとするから、無駄な競争ばかりが激しくなり、価格も乱れ、最後は斜陽産業って言われることになるんですよ。
僕は昔から分母が小さいファッション産業が好きだった。例えば、人に嫌悪されるくらいのものを作ったとしても、それが広がっていくのがファッション文化だと思っていたし、今もそう信じている。工場を作ったのも、自由に純粋に、情熱を注いでいける場所を残しておきたいからなんです。
—工場は原点ということですか。
この世界に入ってからずっと疑問に思っていたのですが、ファッションの世界は、クラフトマンシップや生産という部分とリンクしていないんです。でも僕はモノ作りの内部にいた方が面白いし、いつも作り手の側にいることを意識していたい。自分の(デザインする)アイデアが枯れても、作る現場の近くにいれば何とかなると思っているほどです。
だから自分たちが作った工場で若い人や職人さんたちをできるだけ多く巻き込んで、クリエーションを続けていきたい。さらに言えば、自分のブランドだけに閉じ込めるのではなくて、近い将来、工場は独立させるつもりだから、彼らには工場発のブランドを立ち上げてほしい。こういう小さい工場が1つでも増えていけば、僕はうれしい。
—改めて、デザイナーの仕事とは。
自分が死んだ後のことを考えたら、デザイナーとしてのクリエーションの評価とか、会社に少しの利益を残せたとか、そんなこと大したことじゃない。これまでのファッション業界で言うデザイナーの仕事って、実質は企画問屋ですよ。物を実際に作り上げるのは工場という構図のままで、何がクリエーティブなんだろう? 本当の意味でクリエーティブって考えたら、企画問屋の仕事に何かをプラスアルファすることが必要なはずです。なかなか簡単ではないけど、理想は新たな道(方向性)を示唆するような仕事。ファッションには違うベクトルが必要だし、それを生み出していくのが、デザイナーの仕事じゃないかな。だから、(工場を作ると言う)ベクトルが新しいファッションになっていけばいいなと思う。(c)senken h
■みはら・やすひろ
1972年6月、長崎で画家の母とにわとり研究家の父との間の次男として生まれる。福岡で育ち、93年4月多摩美術大学デザイン学科テキスタイル学部入学。在学中から独学で靴作りを始め、大学卒業後シューズメーカーの設立に参加。98年9月、初の直営店「SOSU MIHARAYASUHIRO」を東京・青山にオープンする。05年1月にミラノメンズコレクション初参加後は、内外でのコレクションの披露、プーマや田崎真珠などさまざまな企業やブランドとの協業に取り組んでいる。
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◆特集:senken h 106