【11月13日 AFP】10日に死去した南アフリカの歌手、ミリアム・マケバ(Miriam Makeba)さんの悲報を受け、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)元大統領は同日、追悼のコメントを発表した。

 マンデラ氏は、「彼女は南アフリカの歌の世界におけるファーストレディーであり、『ママ・アフリカ』のタイトルにぴったりの人物だった。われわれの闘争(=反アパルトヘイト闘争)、われわれの新生国家の母親的存在だった」と語った。

 マケバさんは9日、著書『死都ゴモラ(Gomorra)』をめぐってマフィアから命を狙われている作家のロベルト・サヴィアーノ(Roberto Saviano)氏のためにナポリ(Naples)近郊のカステルボルトゥルノ(Castel Volturno)で開かれたコンサートに出席。30分熱唱した後に倒れ、アンコールの大合唱の中、手当を受け、病院に運ばれたが心臓発作のため間もなく死亡した。

 1932年3月4日にヨハネスブルク(Johannesburg)で、スワジ(Swazi)人の母親とコサ(Xhosa)人の父親の間に生まれた。南アフリカの人気バンド「マンハッタン・ブラザーズ(Manhattan Brothers)」の女性ボーカルとしてデビュー。1959年の全米ツアーで、その名を世界に知らしめるにいたり、アフリカ大陸を代表する伝説的な歌姫となった。2005年に引退を決意し、さよならコンサートを世界各地で開催した。

■生涯の光と影

 マケバさんは、反アパルトヘイト闘争を展開していたマンデラ氏が獄中生活を送っていたころ、歌を通じてアパルトヘイト反対を訴えていた。1959年、映画『キングコング(King Kong)』のミュージカルに出演して南アフリカでの名声を確立したが、同年に反アパルトヘイトの映画『Come Back, Africa』に出演したことで、南アフリカ政府は1960年、マケバさんの市民権をはく奪。持ち歌の放送なども禁止した。母親の葬式に参加するための帰国も許されず、30年以上にわたる亡命生活を欧米やギニアで送った。

 その後、1965年にハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)との共作でグラミー(Grammy)賞を受賞。1967年に「パタ・パタ(Pata Pata)」が大ヒットする。

 生涯に5回結婚したが、1968年に3人目の夫、米国で急進的な公民権活動を展開していたブラックパンサー党(Black Panthers)の指導者ストークリー・カーマイケル(Stokely Carmichael)氏と結婚した際には、米国内で怒りを買い、いくつかのコンサートがキャンセルされるとともに契約も解消されるという事態にまで発展した。 

 生活はしばしば困窮した。ひとり娘が1985年に36歳で亡くなったときには、ひつぎを買うお金も持ち合わせていなかった。

 自伝の中で、子宮頸(けい)がんをわずらっていることを告白。アルコール中毒とのうわさは否定した。

 1987年に米歌手ポール・サイモン(Paul Simon)が「グレースランド・ツアー」で、南アフリカの隣国ジンバブエで公演を行った際には、マケバさんも参加した。1990年代初頭にマンデラ氏が釈放され、アパルトヘイト体制が崩壊すると、約30年ぶりに帰国を許された。

■各界から追悼の辞

 南アフリカの与党アフリカ民族会議(African National CongressANC)のジェイコブ・ズマ(Jacob Zuma)党首は、「ミリアム・マケバは人々を楽しませるだけではなく、アパルトヘイトの下で抑圧された数百万人の気持ちを代弁するために、自分の声を駆使した」と追悼の弁を述べた。

 セネガルの歌手ユッスー・ンドゥール(Youssou Ndour)さんは、マケバさんの死を「アフリカにとって、アフリカ音楽とすべての音楽にとって、大きな損失だ」と惜しんだ。(c)AFP