【3月31日 AFP】カンボジア内戦でポル・ポト派の虐殺を生き延び、映画「キリング・フィールド(The Killing Fields)」のモデルとなったディス・プラン(Dith Pran)氏が30日、ニュージャージー(New Jersey)州の病院で、すい臓がんのため死去した。65歳だった。

■カンボジア内戦を取材、虐殺を生き延びる

 プラン氏は1972-75年、米ニューヨークタイムズ紙(New York Times)のシドニー・シャンバーグ(Sydney Schanberg)記者の助手に採用され、カンボジア内戦を取材。1975年4月に米国民がプノンペン(Phnom Penh)を退去した後も同地に留まり、ほかの2人の記者とともにプノンペン陥落を報じた。

 4人はポト派にとらえられ死刑宣告を受けたが、プラン氏は3人の記者が「中立的な立場のフランス人ジャーナリスト」だとポト派を説得することに成功。全員が釈放され仏大使館に避難した。

 大使館内の外国人に国外退去命令が出た時、カンボジア人のプラン氏だけは出国を認められず、カンボジアの辺境にある強制労働収容所に送られた。そこはポト派の虐殺の舞台として、後に「キリング・フィールド」として知られるようになる。プラン氏は200万人を虐殺したとされるポト派政権下で、飢えと拷問の4年間を生き延び、1979年にタイへ脱出してシャンバーグ記者と再会した。

 シャンバーグ記者が自身の体験を描いた著書、『The Death and Life of Dith Pran』(1980)を元に、この再会の場面をラストシーンにすえた映画「キリング・フィールド」(1984)は、3部門でアカデミー賞を受賞。プラン氏を演じ助演男優賞を獲得したハイン・S・ニョール(Haing Ngor)氏もポル・ポト時代の生き残りだった(1996年にロサンゼルスで強盗にあい射殺された)。

 シャンバーグ氏は1976年に、カンボジア内戦の取材でピュリツァー賞(Pulitzer Prize)を受賞している。

■希望を捨てず、虐殺を後世に伝える

 1942年9月27日、アンコールワット(Angkor Wat)付近の村に生まれる。シャンバーグ記者の助手となるまでは、観光業に就いていた。内戦後の1980年以降は、ニューヨークタイムズ紙のカメラマンとして活躍した。

 ポト派の大虐殺で父と兄弟4人を殺害されたが、カンボジアの将来への希望は捨てず、過去のあやまちを繰り返さないようにとの思いから、新しい世代に虐殺を伝える「The Dith Pran Holocaust Awareness Project(ディス・プラン・ホロコースト認知プロジェクト)」を立ち上げた。

 1985年には、国連難民高等弁務官事務所(United Nations High Commissioner for RefugeesUNHCR)の親善大使に任命された。(c)AFP/James Hossack