【2月19日 AFP】19日に党機関誌グランマ(Granma)のウェブ版で、国家評議会議長と軍総司令官の辞任を発表したフィデル・カストロ(Fidel Castro)氏。約50年にわたりキューバを統治し、断固として反米姿勢を貫いてきた同氏も、年齢には勝てなかったようだ。

 1959年の首相就任以来、カストロ氏は暗殺計画、米国の支援を受けた反革命部隊の武力侵攻、米国による経済制裁など、あらゆる敵に打ち勝ってきた。

 オリーブ色の軍服に、もつれたようなヒゲ、葉巻がトレードマークのカストロ氏は1年半前から健康状態の悪化に苦しんでいた。自宅療養を続けながらも反米を訴え、政界離脱の可能性を頑として否定してきたが、ついに19日辞任を発表した。

 1926年8月13日、ガリシア出身の裕福な地主の父とキューバ人の母のあいだに生まれたカストロ氏は幼少時、米国の大リーグで活躍する野球選手になるという夢を抱いていた。ハバナ大学では、法学部に学んだ。

 だがその大きな夢はやがて、舞台をスポーツ界から政界へと移す。1953年には、米国の支援を受けて1933年からキューバの実権を握り続け、その前年のクーデターで大統領の座に就いたフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)の政権転覆を狙ったモンカダ兵舎襲撃事件に関与した。

 事件への関与によりカストロ氏は2年間にわたって投獄生活を余儀なくされたが、釈放後はメキシコに亡命。1956年12月2日に「グランマ号」に乗り、反乱軍を率いてキューバ国内に潜入してゲリラ戦を開始した。  それから2年1か月後の1959年1月、ついにバティスタ政権を打倒。2月に首相に就任した。

 政権掌握後は、当時のソ連および東欧諸国と手を結び、ソ連崩壊まで資金供給源として同盟関係を維持した。  カストロ氏が50年にわたりキューバを統治しているころ、米国では大統領が10回交代したが、いずれもカストロ政権に圧力をかけ続けた。米国は1898年、キューバの植民国だったスペインとの米西戦争に勝ち、キューバを保護領化した経緯がある。

 1962年には、ソ連が核弾頭を装備したミサイルをフロリダ(Florida)半島からわずか144キロのキューバ領内に配備しようとしていることが明らかになり、米国はミサイル撤去を要求して海上封鎖を行い、世界は核戦争勃発の危機にさらされたが、ソ連がキューバからミサイルを撤去しキューバ危機は無事に解決した。  米ソ冷戦時代には、カストロ氏は共産主義の象徴として世界に名をとどろかせた。

 1975年にはソ連と協調して1万5000人の兵をアフリカのアンゴラに派遣。さらに1977年にも、エチオピアに派兵を行っている。

 カストロ氏の行動に激高、当惑、警戒を繰り返してきた米国は、経済制裁を加えることでキューバ国内に反乱が起きることを期待したが、これは失敗に終わった。

 カストロ氏は、国内経済の停滞をそうした経済制裁に起因するものと指摘し、かつて同国への侵攻を試みて失敗した米国いつ何時でも再び侵攻することが可能だと、1100万人の自国民に警告を与え続けてきた。  ソ連崩壊により経済崩壊の危機に陥ると、カストロ氏は外国人観光客の誘致に積極的な姿勢を見せ、わずかながらも経済改革を推進するようになった。

 だがその後は中国と異なり、再び中央集権化と経済引き締めの強化へと動き、新たな資金供給源として産油国ベネズエラと同盟関係を結ぶに至った。

 1961年には米国との国交を断絶し、国内米系企業の資産、総額10億ドル(約1070億円)以上を没収している。

 同年4月、米CIAに訓練を受けた約1300人の亡命キューバ人の反革命部隊がピッグズ湾(Bay of Pigs)で武力侵攻を試みたが、カストロ政権はこれを撃退。しかし、この事件をきっかけに国内では反カストロの動きが活発化し、多くの市民ならびに資本が主にフロリダ半島へと流れ込む結果となった。

 政界ではその名を世界にとどろかせてきたカストロ氏も、私生活は長年ベールに包まれてきた。だがここ数年は、かつてよりも多くのプライベート情報が公にされるようになっている。

 1948年、同氏はミルタ・ディアス・バラルト(Mirta Diaz-Balart)さんと結婚し、長男フィデリト(Fidelito)さんをもうけた。ミスラさんとは後に離婚。1952年には医師を夫に持つナティ・リベルタ(Naty Revuelta)さんと出会い再婚、1956年に長女のアリーナ(Alina)さんが生まれた。

 1957年には生涯のパートナーとも呼ぶべきセリア・サンチェス(Celia Sanchez)さんと出会い、1980年にセリアさんが亡くなるまで共に暮らした。  1980年代には、ダリア・ソト・デル・バジュ(Dalia Soto del Valle)と結婚し、アンヘル(Angel)、アントニオ(Antonio)、アレハンドロ(Alejandro)、アレクシス(Alexis)、アレックス(Alex)の5人の子どもをもうけた。(c)AFP