20世紀最高のソプラノ歌姫マリア・カラス、没後30周年
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【9月18日 AFP】死後30年を経た今も戦後最高と称される女性オペラ歌手マリア・カラス(Maria Callas)は、オペラファンが最も愛し、クラシック音楽の壁を越えた伝説の人物として語り継がれている。
忘れがたい歌声で多才ぶりを見せたカラスは、ステージだけでなく、その私生活もドラマチックなものだったと伝えられる。1977年9月16日、カラスが53歳のときパリのアパートで孤独な死を迎えた当時、「モードの帝王」イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)は、「神々は退屈し、自身の声を呼び戻したのだ」と語った。
カラスのアルバムは、その死後もEMIからほぼ定期的にリリースされており、これまでに全世界で約3000万枚を売り上げている。
「死後30年が経った今も、カラスの歌は人々の心に語りかけています。彼女が死んだ当時にはまだ生まれていなかった人たちにもです。これは驚くべきことです」と、EMI ClassicsのAlain Lanceron副会長は語る。
華やかなベルカント・オペラからよりドラマチックなソプラノまで、幅広くこなしたカラスの魅力は、天性の才能と猛練習により培われた並外れた歌声にあった。
■伝説の歌姫カラス、誕生までの道のり
1923年12月2日、カラスはギリシャ移民の両親のもと、ニューヨークに生まれた。生まれた当時はMaria Kalogeropoulosという名前だったが、すぐに父親がKalosに短縮、その後カラス(Callas)へと変わった。1937年、両親が離婚すると母親とともにアテネ(Athens)へと渡った。
アテネでは、母親の勧めでアテネ音楽院(Athens Academy of Music)に入学。有名なスペイン人ソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴ(Elvira de Hidalgo)らに師事した。「彼女はソプラノ、メゾソプラノ、テノールなどすべての生徒の歌を聞いていました。彼女はすべて歌うことができたでしょう」と、イダルゴはのちに語っている。
戦後はイタリアへ移り、1947年にイタリア人指揮者トゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin)の舞台に出演、歌手としてのキャリアをスタートした。1949年には、彼女の代理人で裕福な実業家だったジョヴァンニ・パッティスタ・メネギーニ(Giovanni Battista Meneghini)氏と結婚。セラフィンとメネギーニ氏により、近視でぽっちゃりとした体格の不運な少女時代を送ったカラスは、素晴らしい才能に溢れた魅惑的な歌手へと変貌し、その後は世界中のオペラ劇場から出演依頼が殺到するようになる。
レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)が「オペラのバイブル」と称したように、カラスは1950年代、舞台で迫真の演技を見せ観客を魅了した。ミラノのスカラ座(La Scala)、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)、ロンドンの英国王立オペラ劇場(Royal Opera House)、パリのオペラ座(Paris Opera)などで、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)、バーンスタイン、ジョルジュ・プレートル(Georges Pretre)らが指揮をする作品に出演。ルキーノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)やフランコ・ゼフィレッリ(Franco Zeffirelli)が、カラスのために特別に演出した舞台もあった。
カラスは、特にルイジ・ケルビーニ(Luigi Cherubini)作曲のギリシア神話を題材にした歌劇『メデア(Medea)』、およびヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)やジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)、ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)などで知られる19世紀初頭のイタリアのベルカント・オペラの作品に出演した際、傑出した歌唱力を示して「伝説のディーバ」として不動の地位を築き上げた。
■カラスはメゾソプラノだったのか?
ベッリーニの『ノルマ(Norma)』などが有名なカラスは、ベルカント・オペラの復活に力を入れていた。1970年代に制作されたカラスのドキュメンタリー番組で、ソプラノ歌手のモンセラート・カバリエ(Montserrat Caballe)は、 「彼女は、世界中の歌手に閉じられていたドアを開放してくれました」と語っている。
わずか3オクターブの音域ながら、リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)作品のイゾルデ(Isolde)、ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)作『ランメルムーアのルチア(Lucia)』のソプラノ、ジョルジュ・ビゼーの『カルメン(Carmen)』のメゾソプラノ、ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)の『椿姫(La Traviata)』まで、様々な音域の役を歌っている。カラスは本来メゾソプラノ歌手だという人が多いが、もともとドラマチック・ソプラノでキャリア半ばにおける急激な減量が影響して声があまりにも早く衰えてしまったと見る人もいる。
マスコミは長い間、カラスを典型的な「気難しい歌姫」として取り上げていた。母親、ライバルとされたオペラ歌手レナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)らとの確執や、ギリシャの海運王アリストテレス・オナシス(Aristotle Onassis)との愛人関係も報じた。カラスとオナシスの関係は、1950年からカラスの声が衰えつつあった1968年まで続き、オナシスがジャッキー・ケネディー(Jackie Kennedy)が結婚したことで幕を閉じた。「体重を失い、声を失い、そしてオナシスを失ったわ」と当時カラスは語ったという。
1965年、カラスは現役を引退。1974年からパリのアパートの一室で自身の曲を繰り返し聞きながらひっそりと暮らし、1977年に亡くなった。
カラスが舞台で歌っている写真や映像はほとんど残っていない。EMI ClassicsのLanceron氏は、これは恥ずべきことだが、思わぬ幸運でもあると言う。「彼女の写真や映像が少ないことにより、ファンは自由にカラスを想像し、ステージで歌う彼女の姿を思いに描くことができますから」(c)AFP/Benoit Fauchet
忘れがたい歌声で多才ぶりを見せたカラスは、ステージだけでなく、その私生活もドラマチックなものだったと伝えられる。1977年9月16日、カラスが53歳のときパリのアパートで孤独な死を迎えた当時、「モードの帝王」イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)は、「神々は退屈し、自身の声を呼び戻したのだ」と語った。
カラスのアルバムは、その死後もEMIからほぼ定期的にリリースされており、これまでに全世界で約3000万枚を売り上げている。
「死後30年が経った今も、カラスの歌は人々の心に語りかけています。彼女が死んだ当時にはまだ生まれていなかった人たちにもです。これは驚くべきことです」と、EMI ClassicsのAlain Lanceron副会長は語る。
華やかなベルカント・オペラからよりドラマチックなソプラノまで、幅広くこなしたカラスの魅力は、天性の才能と猛練習により培われた並外れた歌声にあった。
■伝説の歌姫カラス、誕生までの道のり
1923年12月2日、カラスはギリシャ移民の両親のもと、ニューヨークに生まれた。生まれた当時はMaria Kalogeropoulosという名前だったが、すぐに父親がKalosに短縮、その後カラス(Callas)へと変わった。1937年、両親が離婚すると母親とともにアテネ(Athens)へと渡った。
アテネでは、母親の勧めでアテネ音楽院(Athens Academy of Music)に入学。有名なスペイン人ソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴ(Elvira de Hidalgo)らに師事した。「彼女はソプラノ、メゾソプラノ、テノールなどすべての生徒の歌を聞いていました。彼女はすべて歌うことができたでしょう」と、イダルゴはのちに語っている。
戦後はイタリアへ移り、1947年にイタリア人指揮者トゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin)の舞台に出演、歌手としてのキャリアをスタートした。1949年には、彼女の代理人で裕福な実業家だったジョヴァンニ・パッティスタ・メネギーニ(Giovanni Battista Meneghini)氏と結婚。セラフィンとメネギーニ氏により、近視でぽっちゃりとした体格の不運な少女時代を送ったカラスは、素晴らしい才能に溢れた魅惑的な歌手へと変貌し、その後は世界中のオペラ劇場から出演依頼が殺到するようになる。
レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)が「オペラのバイブル」と称したように、カラスは1950年代、舞台で迫真の演技を見せ観客を魅了した。ミラノのスカラ座(La Scala)、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)、ロンドンの英国王立オペラ劇場(Royal Opera House)、パリのオペラ座(Paris Opera)などで、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)、バーンスタイン、ジョルジュ・プレートル(Georges Pretre)らが指揮をする作品に出演。ルキーノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)やフランコ・ゼフィレッリ(Franco Zeffirelli)が、カラスのために特別に演出した舞台もあった。
カラスは、特にルイジ・ケルビーニ(Luigi Cherubini)作曲のギリシア神話を題材にした歌劇『メデア(Medea)』、およびヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)やジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)、ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)などで知られる19世紀初頭のイタリアのベルカント・オペラの作品に出演した際、傑出した歌唱力を示して「伝説のディーバ」として不動の地位を築き上げた。
■カラスはメゾソプラノだったのか?
ベッリーニの『ノルマ(Norma)』などが有名なカラスは、ベルカント・オペラの復活に力を入れていた。1970年代に制作されたカラスのドキュメンタリー番組で、ソプラノ歌手のモンセラート・カバリエ(Montserrat Caballe)は、 「彼女は、世界中の歌手に閉じられていたドアを開放してくれました」と語っている。
わずか3オクターブの音域ながら、リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)作品のイゾルデ(Isolde)、ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)作『ランメルムーアのルチア(Lucia)』のソプラノ、ジョルジュ・ビゼーの『カルメン(Carmen)』のメゾソプラノ、ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)の『椿姫(La Traviata)』まで、様々な音域の役を歌っている。カラスは本来メゾソプラノ歌手だという人が多いが、もともとドラマチック・ソプラノでキャリア半ばにおける急激な減量が影響して声があまりにも早く衰えてしまったと見る人もいる。
マスコミは長い間、カラスを典型的な「気難しい歌姫」として取り上げていた。母親、ライバルとされたオペラ歌手レナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)らとの確執や、ギリシャの海運王アリストテレス・オナシス(Aristotle Onassis)との愛人関係も報じた。カラスとオナシスの関係は、1950年からカラスの声が衰えつつあった1968年まで続き、オナシスがジャッキー・ケネディー(Jackie Kennedy)が結婚したことで幕を閉じた。「体重を失い、声を失い、そしてオナシスを失ったわ」と当時カラスは語ったという。
1965年、カラスは現役を引退。1974年からパリのアパートの一室で自身の曲を繰り返し聞きながらひっそりと暮らし、1977年に亡くなった。
カラスが舞台で歌っている写真や映像はほとんど残っていない。EMI ClassicsのLanceron氏は、これは恥ずべきことだが、思わぬ幸運でもあると言う。「彼女の写真や映像が少ないことにより、ファンは自由にカラスを想像し、ステージで歌う彼女の姿を思いに描くことができますから」(c)AFP/Benoit Fauchet