【8月28日 AFP】1997年にダイアナ元妃(Princess Diana)がこの世を去ったとき、うわべだけ取り繕い国民の悲しみを理解しようとしなかった英国王室に対し、国民の間で怒りの声が相次いだ。

「ダイアナ元妃の事故により、王室がこれまで作り上げてきたイメージが変わった。国民は、事故の責任の一端が王室にあると気付いたからだ」と語るのは、英国で最も著名なパブリシスト、マックス・クリフォード(Max Clifford)氏。「女王の生活に、あの頃と今とで違いがあるように見える部分があるとしたら、それは国民との関係だろう」

 クリフォード氏を含む多くの人たちが、王室がこの10年間で以前より身近で開かれた王室へと変化したと指摘する。そしてそれは、ダイアナ元妃の事故死による一連の混乱から教訓を得た結果だとみている。

■元妃の事故死をきっかけに、王室内部で変化の動き

 王室が変わったきっかけは、1997年8月31日のダイアナ元妃の死後、王室が儀礼にこだわり感情を表そうとしなかったことで、国民の悲しみが怒りに変わっていったことだった。

 ロンドンでダイアナ元妃が暮らしていたケンジントン宮殿(Kensington Palace)前に、100万人近くの人々が追悼の花束をささげていた頃、エリザベス女王(Queen Elizabeth II)やチャールズ皇太子(Prince Charles)、その他の王室関係者らは、当時滞在していたスコットランドのバルモラル(Balmoral)城から出ようとしなかった。

 女王は、元妃の葬儀の前夜まで公式声明を出さず、葬儀当日までバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)に半旗が掲げられることもなかった。これに対し、サン(Sun)紙は、「我々の女王はどこに? 国旗はどこに?」と書き立てた。

 王室一家は、スコットランドにいながらも、国内に渦巻く不穏な空気を感じていたはずだ。その当時の様子は2006年のヘレン・ミレン(Helen Mirren)主演作品『クィーン(The Queen)』に描かれている。

 皇太子の伝記作家ペニー・ジュノー(Penny Junor)氏は、BBCラジオに対し次のように語った。「1996年に離婚した元妻の死を聞いた皇太子の最初の言葉は、『私のせいだと非難されるだろう』だった。あのとき、王室一家全体が危険にさらされていたが、皇太子の未来までもが危機にひんするのかが、大きな問題だった」

 ところが王室一家はその後も数日間、行動を起こさなかった。国民の怒りがようやく収まったのは、女王が公式声明を出し、伝統と現代的手法を融合した葬儀でエルトン・ジョン(Elton John)が『Candle In The Wind』を歌ったときだった。
 
■「より開かれた王室」に向けて

 こうした出来事をきっかけに、「王室に変化が必要だ。従来とは少し違うやり方で物事に取り組むべきだ」というはっきりした認識が王室内部で生じたと、ある王室関係者は語っている。

 その後、王室自体は変わらなくとも、物事への取り組み方が変わったことが、さまざまな事例により示唆されている。

 2005年に、チャールズ皇太子がカミラ(Camilla)夫人と結婚。1997年当時には考えられなかったことだったが、国民との関係を注意深く改善してきた結果、カミラ夫人に対する国民感情は好転。今では28%が、皇太子が王位を継いだ際には、カミラ夫人には女王になってほしいと答えるほどになった。2005年にこう答えた人は、わずか7%だった。

 王室は2002年、ダイアナ元妃の死に対する悲しみがまだ国内に残る中、女王の即位50周年記念にバッキンガム宮殿でロック・コンサートを行うなど、国民の注目を集めるイベントを開催。

 また、王室一家による海外視察旅行の内容は、ヒンズー教寺院訪問や農業展示会など、従来より多彩なものに。さらに、女王によるクリスマス恒例の国民へのメッセージも21世紀的な色合いが強いものとなっている。

「ダイアナ元妃は、通りを歩く人の気持ちでさえも理解できた。だが、これまでの王室は国民の上に立ち、はるか上から見下ろしていた」とクリフォード氏は話す。「だが今の王室は、もっと人間らしい表情を出そうと努めている。時代とともに、変化せねばならないと悟ったのだ」

 皇太子は古いタイプの人間だが、ウィリアム王子(Prince William)は将来に大きな希望を抱かせる存在になると、クリフォード氏はみている。「王室の未来は、ウィリアム王子が左右することになる。つまり王子が、皇太子とダイアナ元妃、どちらの息子なのかということだ。王子が母親のような人気を得られば、王室の未来は安泰だろう」(c)AFP/Katherine Haddon