【京都 12日 AFP】2006年度文化勲章を受章した作家の瀬戸内寂聴さん(84)。51歳で出家し、現代日本で最も有名な宗教指導者の1人だが、その人生の岐路の多くは恋に彩られている。

 京都の寂庵でAFPとのインタビューに応じた瀬戸内さんは、まず、「正直、もう少し受章が早くてもよかったんじゃないかと思うんですよ」と笑いながら言った。

 だが、すぐに真顔になって、「受章できるとはまったく思っていませんでした。わたしの著作のほとんどは体制への抵抗がテーマですし、その中には天皇制も含まれていますから」と述べた。

 今回の受章は、数々の著作活動に加え、『源氏物語』の現代語訳など、瀬戸内さんの幅広い文化的貢献に対するものだ。その寂聴さんは、かつてポルノ小説家との批判を受け、文壇から追放されたり、若い愛人や既婚男性との数年にわたる不倫関係など、自由奔放な私生活が批判の対象となったこともある。

 そんな自分の受章について、「時代が変わりましたね」と、瀬戸内さん。「権威の側も、もはや発想や思想の多様性を無視できなくなりました。わたしは、自分と同じような生き方をしてきた女性たちのことを思いながら受章しました」と話した。

■「子宮で考える」作家

 瀬戸内さんは1922年、徳島市に生まれた。父は彼女のすることに対して「とても理解のある人」だったが、病気になってからは娘の評判を気にして、「近所が迷惑する」と日中に帰宅することを嫌がった。

「夫と子どもを捨てて家を出た時など、ろくでなしと非難されましたね」

 3歳の娘を持つ良妻賢母だったが、25歳で夫の教え子と恋に落ちる。夫に殴られたあざを目の回りに残したまま、無一文同然で夫と娘を置いて、家を出た経験が、後に出版された自伝的小説『場所』に綴られている。

「わたしはずっと、男性と対等な立場になりたければ、女性は経済的に自立しなければならない、と言い続けているんです。それが、わたしの人生を通して唯一、女性に送るメッセージです」
「経済的に自立している限り、子どもと一緒にいられますから。わたしが家を出たときにはかなわなかったことです」

 作家デビューは30代前半。『女子大生・曲愛玲』で新潮社同人雑誌賞を受章した。続いて『花芯』を出版する。題名は子宮を暗示し、型破りな恋愛のため夫と子どもを捨て、やがて売春婦となる女性の物語だった。

「出版にあたって、わたしはとても興奮していました。ですから、広告文を見た時はショックでしたし、面食らいました」

 広告文には、「子宮で考える作家」の処女作と書かれていた。女流作家による詳細なセックス描写が当時の文壇で問題視され、批判が集中した。

「ポルノだと言われました。何より頭に来たのは、わたしが自慰行為にふけりながら執筆したに違いないと言う男性がいたことです」

 若く情熱的だった瀬戸内さんは、辛らつな反論を開始。彼女を批判した男性を「不能」と呼び、彼らの妻たちは「不感症」に違いないと言った。

「で、出版界追放です」と瀬戸内さんは笑った。「彼らが激怒したのは、もしかしたらわたしの憶測が的を射ていたからかもしれないわね」

 追放は5年間に及んだ。その後、先輩女性作家の伝記、『田村俊子』で文学界に復帰すると、自らの8年間の不倫体験を描いた『夏の終り』を出版する。

■「より大きな何か」を追及して仏門に

 作家としての人気が頂点に至った1973年、51歳で出家した。人々は好奇心から、いまだに出家理由を尋ねてくるが、あまり頻繁に問われるといらいらしてくると瀬戸内さん。そういうとき、彼女は短く、「より大きな何か」を探し求める気持ちが決断のきっかけだった、と答える。

「世の中を否定して仏門に入ったわけではないんです。男性との関係に疲れたというのでもありません。出家する直前まで、数人の男性とおつきあいしていました。でも、仕事を持ち、おつきあいする相手がいても、心は空虚だった。何かほかのものを追い求めたかったんです」

 若いころは恋愛ゴシップから逃れられない女性と言われた瀬戸内さんだが、出家後はきっぱりと男性との関係を絶った。しかし、説法の中では、人々に「恋愛に情熱的になれ」と話す。これが、彼女の人気の1つにもなっている。

「生きることの意味とは、誰かを愛することです。愛するだけにとどまらず、誰かに夢中になることです」
「いずれにしろ、人は1人で生まれてきて、1人で死んでいくものなのです」

 瀬戸内さんは、人道活動家としても活躍している。2001年に米軍主導の多国籍軍がアフガニスタンを空爆した際には、抗議のハンガーストライキを行った。イラクの子どもたちに医療用キットを届けたり、自衛隊のイラク派遣に抗議したりもした。

 死刑に反対しており、旧連合赤軍のリーダーで、1971年に内部粛正で12人を殺害して死刑判決を受けた永田洋子死刑囚など、死刑囚らとの往復書簡は有名だ。

「あのように仲間を殺害することは、たとえどんな理由にしろ間違っています」と瀬戸内さんは言ってから、「ただ」と付け加えた。いつも「でも、わたしが当時の彼女と同じくらい若かったら?」と自身に問うのだという。

 1911年の大逆事件で、天皇暗殺をたくらんだとして死刑になった管野須賀子(管野スガ)を例に出し、「彼らは皆、国や世界をよくしたいと願っていました。(永田も管野も)自分の欲のための行為ではなかった。理想の世界を実現する情熱に満ちていました。そうした人々に、わたしは共感を覚えるのです」と述べた。

■「小説を読め、分別を持て」

 母と祖母を第二次世界大戦の空襲で失った瀬戸内さんは、日本人に対して、自国がどちらの方角に向かっているのかを考えるときに想像力を働かせるよう、たびたび呼びかけている。

 安倍政権下で防衛庁が防衛省に昇格したことに、危機感を覚えると述べた。また、憲法改正についても、「結果的に、日本がまた戦争に突き進む道を開き、徴兵制が復活しかねない」と危ぐする。

 「わたしはもう二度とあんなこと(戦争)が起きるのを見たくはありません。少なくとも、わたしが生きている限りは」

 現在、瀬戸内さんは世阿弥の内面の葛藤を描いた新作小説の執筆に取り組んでいる。佐渡に流罪になりながらも、芸術は人の情を伝える永遠の媒体だと信じていた世阿弥の、「人間は死ぬけれども芸術は永遠だ」とする精神に、感銘を受けたのだという。

 「われわれ人間は、経験するまで感じることができない、愚かで無神経な存在です。実際に失恋してみないと、苦悩ゆえに狂気に走るということは理解できない。だからこそ、われわれには芸術があるのです。本を読んで想像力の訓練をし、他者への思いやりを学ばなければなりません」と話した。

 写真は9日、京都の寂庵でインタビューに応じる瀬戸内さん。(c)AFP/Yoshikazu TSUNO