【5月31日 marie claire style】イギリスの深い森のようにミステリアスで、妖精のように儚く。ブリティッシュ・フォーク界の歌姫として短い生涯を駆け抜けたサンディ・デニー。階段を踏み外し、転落した衝撃で脳出血のために31歳でこの世を去ってしまった彼女。命日である4月21日が近づくたびに、その神秘的な歌声が思い出される。

 ロンドン、ウィンブルドンで生まれたサンディ・デニー、本名アレクサンドラ・エレーヌ・マクリーン・デニー。バラッドの語り手であった祖母を持ち、幼い頃からクラシックピアノを弾き音楽に慣れ親しんでいた。技術学校へ進学し、看護師の資格を取るために病院と学校を掛け持ちしながら、彼女はフォーク・ミュージックのクラブで歌い始める。そこでピンク・フロイドのマネージメントをしていたジョー・ボイドと出会い、ミュージシャンへの道が少しずつ開けていく。

 サンディはジョー・ボイドの紹介でイギリスのフォークロック・バンドのパイオニアであるフェアポート・コンヴェンションにヴォーカルとして参加するようになり、彼女のトラッドミュージックへの造詣の深さにバンド・メンバー達は感化されていく。彼女が愛していた伝統音楽と彼らが模索していたロック・スタイルが融合し、アルバム『Liege & Lief』が誕生した。彼女からの影響でメンバーがトラッドへと傾倒していく一方で、彼女はシンガーソングライターとしての道に進むべく、惜しまれながらもフェアポート・コンヴェンションを脱退する。バンド在籍時にツアーを共にしたトレヴァー・ルーカスとは公私ともにパートナーとなり、サンディはフォザリンゲイを結成。それも経済的な理由から一年余りと短命に終わったが、その後のソロでも伴奏にメンバーを起用し、ギターにはフェアポート・コンヴェンションのリチャード・トンプソンのサポートを得てソロ・デビュー作『The North Star Grassman and The Ravens(海と私のねじれたキャンドル)』を生み出した。それ以降もオールド・ジャズの要素を取り入れたアルバムを発表するなど、柔らかいハスキー・ヴォイスに磨きをかけ、作曲の才能も開花していく。

 そんな中で彼女はルーカスとの間に子供を授かる。パブに赤ん坊であるジョージアを置いて帰ってしまうなど、母親としての責任感がサンディには欠如しており、夫のルーカスは娘を連れて故郷オーストラリアへと戻ってしまう。

 その後、階段から転落した事故により医師から処方された鎮痛剤を服用していたサンディは、事故から数週間後に脳出血と薬の副作用から友人宅で昏睡状態になり、帰らぬ人となった。

「その淑女の舌は銀でできていた/それは歌うためだけのもの」。ソロ時代に彼女が生み出した「The Lady」の一節である。歌うために生まれてきた、彼女の舌もきっとなめらかな銀でできていたに違いない。

■プロフィール
多屋澄礼(Sumire Taya)
1985年、東京都出身。インディ・ポップという音楽ジャンルを軸にイラストレーター、ライター、DJとして雑誌や本などで執筆を手がける。女性DJグループ、Twee Grrrls Club主宰。レーベル&ショップ、Violet And Claireのオーナーとして、女性作家や海外の雑貨などをセレクト。2012年、Twee Grrrls Clubの著書として『インディ・ポップ・レッスン』を刊行。その後、アレクサ・チャン著『IT』の日本語版の翻訳を手がけ、15年には女性ミュージシャンのライフストーリーを綴った『フィメール・コンプレックス』、京都のガイドブックとして『New Kyoto京都おしゃれローカルガイド』を刊行。

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(c)marie claire style/selection, text, illustration: Sumire Taya