【4月27日 AFP】ウクライナの首都キーウ郊外の静かな住宅街ブチャ(Bucha)の惨状を、世界で初めて目撃したジャーナリストはAFPの取材班だった。ロシア軍が、占領した1か月余りの間に数百人もの市民を虐殺したとされる場所だ。このコラムは、取材班の一人、ダニー・ケンプ(Danny Kemp)が書き留めたものだ。(文中に残酷な描写があります)

■ブチャにて

 最初に3人の遺体が目に入った。ぼろ布のように道に横たわっていた。その光景だけで十分だった。

「死体…」

 車内の誰かがそうつぶやいた。それしか言葉が出なかった。車を止め、外へ出た。ブチャのはずれの灰色がかった長い一本道は、薄曇りの空へと続いていた。遺体は、積み上げられた建設資材や木製パレットの横に放置されていた。近づくにつれ、そのうちの一人は後ろ手に縛られているのが分かった。

 私、カメラマンのロナルド・シェミット(Ronaldo Schemidt)、ビデオジャーナリストのニコラス・ガルシア(Nicolas Garcia)、取材協力者、運転手、セキュリティーコンサルタント──。取材班はすぐに、その遺体が単なる「序章」にすぎないことに気付かされた。

 がれきの散乱する一本道のあちこちに残された、遺体、遺体、遺体。荒涼とした道はこの世のものと思えなかった。

 強い衝撃を受けた。これほど恐ろしい光景が現実のわけがない。しかし、それはまぎれもない現実だった。同僚たちと目を合わせ、記者としての仕事に取り掛かった。ウクライナに入って3週間。すでに疲労はピークに達していた。余計なことを考えることもなく、機械的に取材を始めた。

 これはとてつもない記事になる――。戦争犯罪の追及につながる取材だ。記者として、この惨事を世界に伝えなければならない。しかも迅速に。ロナウドとニコラスは、SNSで出回っていたブチャの遺体に関する情報が事実であることを証明するための画像を撮影していた。私は遺体を数え始めた。

 このような場合、偽情報はあっという間に広がる(後にその懸念が現実となる)。大切なのは、すべてを正しく把握することだ。

 私たちの記事と画像は瞬く間に世界を駆け巡った。ロシアに対する国際的な非難が噴出し、制裁を求める声が高まった。その時の私たちには、そのような反響を知る由もなかった。

 取材班は、キーウの北西、松林に囲まれたイルピン(Irpin)とブチャの取材を何度も試みていた。だが、3月13日に米国人映画監督ブレント・ルノー(Brent Renaud)氏が亡くなって以来、キーウの主要な検問所はジャーナリストを通してくれなくなった。

 ウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領が世界の議会で華々しい演説を行っていた裏で、国内では取材規制が続いていた。当局がイルピンとブチャの解放を宣言した後も、検問所では「Ni(だめだ)」というにべもない一言しか返ってこなかった。検問所の向こうから絶え間なく砲撃音が聞こえてきたが、市中の状況は想像するしかなかった。

ウクライナの首都キーウ郊外で、破壊されたロシア軍の装甲車両の脇を自転車で通る人(2022年4月1日撮影)。(c)Ronaldo SCHEMIDT / AFP

 4月1日の霧深い午後。ルートを変更し、ようやくイルピンに入った。人影のない荒れ果てた地で目にしたのは、破壊された建物、弾痕が残る車、そして焼け落ちたロシア軍の戦車だった。

 翌日も、凍えそうな霧雨が辺りを包んでいた。その日はブチャに向かった。前日の夕方、遺体が散乱しているブチャの動画をSNSで見たからだ。その映像を裏付ける取材を現地で行ったジャーナリストはまだいなかった。ロシア軍はいまだ撤退しておらず、戦闘が激化する可能性も十分にあった。ブチャの荒廃した通りを車で移動しながら、皆、緊張を隠せずにいた。

ウクライナの首都キーウ近郊ブチャの通りに残された破壊された車両を片付ける職員(2022年4月5日撮影)。(c)Genya SAVILOV / AFP

 ブチャでは当初、生存者の生活を記事にしようと思っていた。例えば、1か月もの間、食料がなく、水道や電気も止まった状態で生き延びた高齢者の話だ。ウクライナ兵が支援物資を配り始めているのが目に入った。

 空気が一変した。

 砲撃された駅の近くに、毛布で半分覆われた遺体が横たわっていた。そこに居合わせた男性が、近所の裏庭に浅く掘られた「墓」を見せてくれた。ロシア人に殺された4人の遺体が埋まっていると言う。墓には緑の枝で作られた十字架が立てられていた。

 この時点で、ブチャの状況を説明するのに十分な取材ができたと思い込んでいた。ところが、兵士や住民に、ここから少し車を走らせればSNSで話題になっていた「死体で埋め尽くされた通り」があると教えられた。墓の説明をしてくれた男性が案内を買って出た。この手の誘いがネタにつながることはそうそうないが、乗ってみる価値はあるはずだ。車を走らせた。

 そこで見た遺体は、なぜか人間離れしていた。最初に見た犠牲者は、茶色のフードが付いたジャケットにジーンズといういでたちで、体を横に向けて倒れていた。その顔はあまりに白く、まるでろうのようだった。何もかもが作りもののように思えた。

 白い布で後ろ手に縛られていた。その姿を見て、死んでいるのだと改めて実感した。かすかにしわが刻まれた皮膚、変色した爪。そばには別の2人の遺体が横たわっている。一人はズボンのすそが靴下の上までめくれ上がり、紫に変色した皮膚が見えた。見たものすべてが生々しかった。

 記者という仕事は、「他人に干渉しない」という、人としての感情を押し殺さなければいけない時がある。それは死者に対しても同様だ。見ないでくれ、という声を上げられない死者を間近に見ることは、はばかられる気がした。しかし、その人がどのようにして死んだのか、生前はどんな人物だったのかを知るには、それしか方法がないように思えた。

ウクライナの首都キーウ北部ブダバビネチカ近くの道に置かれた破壊された車をのぞき込むウクライナ兵(2022年4月5日撮影)。(c)RONALDO SCHEMIDT / AFP

 被害者の服装から、民間人だということは一目で分かった。年齢はさまざまだが成人男性だろう。皆、死後時間が経過している。肌はくぼみ、指はこわばっている。これほど多くの死体を見る機会などこれまでなかったが、比較的最近殺されたのだろうという見当は付いた。

 このような状況下での記者の仕事は至ってシンプルだ。罪悪感や恐怖をいったん忘れ、死体を数え、観察し、描写する。私は2度、通りを行き来したが、遺体の数があまりにも多く、正確に数えることができなかった。最初に目に入らなかった遺体が中庭に横たわっていることに気付くこともあった。結局、スマートフォンで1体ずつ写真を撮ることにした。3度行き来し、20人の遺体を確認できた。

 読者が目をそらすほどショッキングな写真や描写を使わずに、この惨状を伝えるにはどうすればいいか。カメラマンのロナウドとニコラスにとって、この問題は私よりもハードルが高い。詩人T.S.エリオット(T.S. Eliot)いわく「人間はあまりの現実に耐えられない」。これは映像ジャーナリズムにとって大いなる課題だ。あまりに生々しい映像を出すことなく、状況の恐ろしさを伝える難しさ。そして、無残に殺された犠牲者たちの尊厳をどうすれば守れるのか。

 ロナウドと二コラの判断は絶妙だった。彼らの映像は世界中の新聞の1面を飾り、テレビに映し出され、ウクライナ国内外の政治家がブチャの惨状を説明するために使われた。

 凍(い)てつくような灰色の路上にいると、時々、現実が迫ってくる。さまざまな姿で路上に横たわる被害者は一体どんな人物だったのだろう。黄と白の縁石の上に頭を乗せた遺体。目を閉じ、足を組み、まるで昼寝でもしているかのような年配の男性はどのような人となりだったのか。

 水たまりには、まるで空をぼんやりと見つめているかのような、まぶたをかすかに開いた男性の亡きがら。その横に寄り添うように横たわるもう1人の男性。この若い2人は友人だったのだろうか。それとも親戚だろうか。別の場所には黒いジャケットのポケットに手を突っ込んでいる男性の死体があった。いったい何を取ろうとした時に命を落としたのだろう。

 そして、究極の疑問が浮かんでくる。彼らは一体誰の手によって、どのように殺されたのか。2人の遺体は頭に致命傷を負っていたが、他の犠牲者にはそのような傷はなかった。両手を縛られた犠牲者もいた。別の人は日常の延長線上で命を落としたかのように見えた。少し離れた場所では3人の遺体が自転車に絡まるように倒れている。1人は黒い旅行かばんを握ったままだ。別の2人の遺体のそばには買い物袋があった。通りはがれきで覆われ、少なくとも1軒の家が大破していた。砲撃を受けたのだろうか。焼け落ちたり、壊されたり、弾丸を受けた車に何があったのだろうか。

ウクライナの首都キーウ近郊ブチャで、自宅の庭に作った息子の墓で泣く女性(2022年4月6日撮影)。(c)RONALDO SCHEMIDT / AFP

「そんな疑問は後でいい」と、自分に言い聞かせる。生き残った一握りの住民は、ふらふらと私たちの横を歩いている。時々、遺体に目をやりながら通り過ぎるその姿は、ここでは死が日常になっているかのようだった。彼らに声を掛けることはしなかった。

 やるべき仕事が待っていた。その場を離れ、写真や動画、記事をニュースデスクに送らなければならない。ヤブロンスカ(Yablonska)通りという名前をノートに走り書きすると、車を走らせた。

「キーウ近郊の路上で20人の遺体発見 AFP」

 後のことは考えず、見たままを伝えた。私たちのニュース速報は4月2日16時33分、写真や映像と共に世界に配信された。

 ウクライナ当局は後に、ヤブロンスカ通りの犠牲者はすべて銃殺されたと発表。撤退するロシア軍によりブチャでは数百人が殺害され、集団埋葬地に埋められた住民も多数いると説明した。その後、衛星画像により、ロシアの支配下にあった3月中旬から数人の遺体がすでに通りに放置されていたことが判明した。英検証サイト「ベリングキャット(Bellingcat)」は、私たちが取材したあの通りで、自転車に乗った人が戦車に砲撃されるところを捉えたドローン映像を公開した。

 ロシアはすべての疑惑を否定した。

 ブチャの惨状は、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった1か月以上前の当初の恐怖とはまるで別ものだった。南東部の港湾都市マリウポリ(Mariupol)や東部ハルキウ(Kharkiv)、北部チェルニヒウ(Chernigiv)での悲痛な証言や映像は数週間前に報道されていた。

 しかし、ブチャの惨事は、それとは違う何かを世界に訴えたように思えた。路上に残された多数の遺体が、ロシア軍が1か月占領した場所から出た初めての明確な証拠だったからだろうか。2022年の欧州で、道に散乱する遺体を見るのが純粋にショックだったからだろうか。

 欧米諸国は翌日、相次いでロシアを非難した。さらなる制裁を警告し、戦争犯罪の調査を要求した。国連(UN)のアントニオ・グテレス(Antonio Guterres)事務総長は「ブチャで殺害された市民の映像に深い衝撃を受けた」とし、米国のアントニー・ブリンケン(Antony Blinken)国務長官は「映像がボディーブローのように効いてくる」と述べた。

ウクライナの首都キーウ近郊ブチャを訪問後、教会でろうそくに火をつけるオーストリアのカール・ネハンマー首相(中央、2022年4月9日撮影)。(c)Sergei SUPINSKY / AFP

 一方、ロシアは疑惑を晴らすべく動き出した。ヤブロンスカ通りの惨状は、ウクライナ軍による演出で、映し出された遺体が動いていると主張した。

 記者の周りには常に偽情報があふれている。しかし、自分自身の目で見たものはまったく別だ。AFPのファクトチェックチームに、彼らは明らかに死んでいて、動いているところなど一度も見なかったと伝えた。

 私たちは、自分たちが歴史を記録していることに気付いていただろうか。多くの記者はそう思いながら常に取材している。しかし、あの灰色がかった寒々としたブチャの通りでは、被害者一人一人の悲劇に思いを寄せることが一番重要だった。彼らはどんな人物で、どのような暮らしを営み、誰を愛し、そしてどのように死んでいったのか。そんな彼らのことを少しでも伝えることができれば、そう願わずにはいられなかった。

 遠い将来、彼らの物語、そして同じように殺された何千人もの物語が、調査や戦争犯罪の法廷で明らかにされる日が来るかもしれない。AFPは、あのおぞましい1か月の間にブチャで何が起こったかを記録する作業と調査を始めている。

 私の本来の勤務地は国際刑事裁判所(ICC)のあるオランダ・ハーグ(Hague)だ。私自身がその裁判を取材することになるかもしれない。その日が来るまでは、今ここに書き記したことが、私たちが目撃した事実であり、被害者にささげれられる唯一のものだ。

ドイツ・ベルリンの議会前で行われたウクライナ支持デモで、「ブチャ」と書かれたプラカードを掲げる人(2022年4月6日撮影)。(c)John MACDOUGALL / AFP

このコラムはAFPのハーグ支局長ダニー・ケンプが執筆したものを、仏パリのフィアチラ・ギボンズ(Fiachra Gibbons)とミカエラ・カンセラキーファー(Michaela Cancela-Kieffer)が編集し、2022年4月17日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。