【8月13日 Xinhua News】中国の四川盆地西部の成都平原に広がる湖沼地帯は、三星堆(さんせいたい、Sanxingdui)遺跡や金沙(きんさ)遺跡に代表される古蜀文明を育んだ。一方、同盆地に連なる大巴山脈の山々に養われた巴(は)文明は、これまで発掘研究があまり行われてこなかったことから、より多くの神秘性をとどめている。

 記者はこのほど、四川省(Sichuan)達州市(Dazhou)渠県(Qu)土渓鎮(Tuxi)城壩(じょうは)村にあり、賨人(そうじん)と呼ばれる巴人の一支族が春秋戦国時代に建てた賨国の都「宕渠(とうきょ)城」の跡とされる城壩遺跡を訪ねた。

 史料の記載によると、賨人は武を重んじ戦に長け、豪快でさっそうとしており、歌と舞いを好むと伝えられている。周の武王による商(殷)の紂王(ちゅうおう)討伐にも参加した。城壩遺跡でこれまで実施された発掘調査では、宕渠城のほかにも東周時代の墓地、前漢~魏晋時代に水陸交通の要衝に設けられた「津関」と呼ばれる関所跡などが見つかっている。

 四川省東部地区の発掘調査を指揮する同省文物考古研究院の陳衛東(Chen Weidong)研究員は津関遺構について「渠江から長江へ向かうには、当時必ずこの地で検問を受け、税金を納めなければならなかった。全国で初めて発見された津関遺跡でもある」と説明した。

 同研究院の考古学研究者らは2018年、この地で漢代の法律文書や書簡、漢字の漢字学習書「倉頡篇(そうけつへん)」などの竹簡(ちくかん)や木簡、木牘(もくとく)300枚余りを発見した。竹簡・木簡(牘)が四川地区で見つかったのは3度目で、非常に重要な史料価値がある。

 宕渠城の西の城門は津関付近にある。城の内側と外側の二つの部分に分かれており、城外からは西城門と排水溝1本が見つかった。磚(せん、れんが)と木を組み合わせて築いた城門としては、現時点で国内最古とされる。

 史書によると、秦は紀元前316年、巴蜀を併合。現在の四川省北東部に宕渠県を設置し、県治(けんち、県政府)をかつての賨国の都に置いた。同都市はその後、後漢の車騎将軍、馮緄(Feng Gun)が改築したことから車騎城と呼ばれるようになり、700年余りにわたり栄えた。その後の各時代でも州や郡、県の役所所在地になっている。

 同研究院は2014年から18年にかけて、城壩遺跡で系統的な考古学的調査と試掘、発掘調査を実施。墓葬や井戸、灰坑、城壁、城門、建物跡、溝、窯など各種遺構400カ所余りを発見し、各種遺物千点余りが出土した。これまでの調査によると、同遺跡の総面積は560万平方メートルとされる。2019年10月から今年にかけて実施された未発掘地点の調査では、比較的高い価値を持つとされる戦国時代の長方形土坑墓4基も見つかった。

 うちM45号墓と名付けられた墓は最も大きく、青銅器や陶器、玉器など70点余りが出土した。出土品には虎鈕錞于(こちゅうじゅんう)や銅鉦(どうしょう)など古代巴人特有の器物のほか、竜文玉佩(りゅうもんぎょくはい)や蜻蜓眼瑠璃珠(せいていがんるりしゅ)、金剣格柳葉形剣(きんけんかくりゅうようけいけん)など巴と蜀の文化が融合した精巧で美しい文化財も含まれていた。

 陳氏はこれらの出土品について、M45号墓の被葬者の身分が非常に高いことを示していると説明。古代巴国を研究する上での貴重な材料だとし、伝説上の賨国の都は城壩遺跡の場所にあった可能性が高いとの考えを示した。(c)Xinhua News/AFPBB News