【12月9日 AFP】1969年12月11日、北朝鮮の諜報(ちょうほう)員が大韓航空機をハイジャックし、北朝鮮の首都平壌に向かった。この飛行機に乗っていたファン・インチョル(Hwang In-cheol)さんの父親は二度と韓国には戻ってこなかった。この出来事が、ファンさんの人生を決定づけた。

 事件が起きた時、ファンさんはまだ2歳だった。そのため、父親の姿は写真を通してしか知らない。だが、ファンさんは大人になってからの大部分を父親の帰国を訴える活動に費やしている。

 韓国のテレビ局文化放送(MBC)のプロデューサーだった父親のフォン・ウォン(Hwang Won)さんはその日、出張のため大韓航空機で江陵(Gangneung)市からソウルの金浦空港(Gimpo Airport)に向かう予定だった。

 離陸直後、北朝鮮の諜報員が機長室に押し入り、銃で脅して金浦空港ではなく平壌に向かうよう命じた。人質となった人々によると、北朝鮮の戦闘機3機が平壌までエスコート飛行し、諜報員の男は平壌に着くと軍関係者に迎えられ、車で走り去った。そして、乗客乗員50人は、飛行機から降ろされる前に目隠しをされたという。

 この事件は国際的な非難を呼び、国連(UN)は直ちに非難決議を採択した。事件発生から2か月後、北朝鮮は乗客乗員のうち39人を韓国に送還したが、この中にファンさんの父親は含まれていなかった。

 戻ってきた乗客によると、ファンさんの父親は北朝鮮の洗脳に抵抗し、イデオロギーに疑問を呈したため、別の場所に連れて行かれたのだという。

 赤十字(Red Cross)は残りの韓国人11人を帰国させるよう北朝鮮に求めているが、北朝鮮は繰り返し拉致を否定、自ら残ることを選択した人もいると主張している。

 韓国国民はすぐにこのハイジャック事件を忘れたが、ファンさんの家族には決して消えることのない影を落とした。「私の人生は苦難の繰り返しだ」とファンさんは言う。