【6月5日 AFP】1944年6月6日、フランス北部の海岸に連合軍兵士15万人以上が上陸した。ナチス・ドイツ(Nazi)からフランスを解放する作戦の開始だった。

 第2次世界大戦(World War II)の行方を決定づけた瞬間とされるノルマンディー(Normandy)上陸作戦の決行日「Dデー(D-Day)」について、ほとんど知られていない事実を紹介する。

■「官能的冒険」

「ドイツ人が来たら、男を隠せ。米国人が来たら、女を隠せ」

 このフランスのジョークは、同国で戦う米兵に軍が約束した「官能的冒険」のことを言っていると、米歴史学者メアリー・ルイーズ・ロバーツ(Mary Louise Roberts)氏は著作「兵士とセックス――第二次世界大戦下のフランスで米兵は何をしたのか?(What Soldiers Do: Sex and the American GI in World War II France)」で指摘する。

 米軍はプロパガンダでフランスのことを「快楽主義者4000万人が住む巨大な売春宿」とうたっていた。ロバーツ氏によると、米軍の準機関紙「星条旗新聞(Stars and Stripes)」は「とてもかわいいね」「私は独身です」「ご両親は今、家にいるの?」などのフランス語を紹介しているが、ドイツ語については「禁煙!」「整列!」などのフレーズを紹介していたという。

 公園、墓地、通りや廃虚などで性行為をする米国人の乱交ぶりは、ルアーブル(Le Havre)やランス(Reims)などの都市で激しい怒りを巻き起こした。米兵150人以上がレイプで裁判に掛けられたがその圧倒的多数は黒人兵で、「米国人の人種差別」に衝撃を受けた仏市民もいたと、ロバーツ氏は指摘している。

■作戦失敗の場合

「Dデー」が差し迫ると、連合軍は最悪の事態に備えた。連合国遠征軍最高司令官で後に米大統領となるドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)氏は、6月5日に発表した「失敗の場合」と題した声明で、「いかなる責めも責任も、私ひとりが負う」と述べた。

 連合軍は80キロにおよぶ海岸の5か所の上陸地点を即座に制圧した。この5か所のビーチはユタ(Utah)、ゴールド(Gold)、ジュノー(Juno)、ソード(Sword)、オマハ(Omaha)のコードネームが付けられていたが、オマハは多数の死傷者が出たため「血のオマハ」と呼ばれるようになった。

 オマハには高い崖があり、ドイツ軍に有利だった。海が荒れ、高波で上陸用舟艇が沈没し、米兵は水が腰の高さまである海に放り出され、溺れ死んだ兵士もいた。3万4000人の米兵が派遣されたが、うち2500人が死亡または負傷した。