【11月17日 AFP】災害を取材するたびに、私の中の何かが少しずつ失われていく。自分の中の優しい部分、ひょっとしたら、それは共感や思いやり、人間らしさかもしれない。取材を通じて、そのような何かが徐々に殺されていくのだ。フォトジャーナリストとして働き始めた頃に比べて、私の中のその何かは弱くなったように感じる。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島ワニで、打ち上げられたフェリーを上空から捉えた様子(2018年10月3日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 インドネシアのスラウェシ(Sulawesi)島で発生した地震と津波は、私にとって8回目の地震、2回目の津波の取材だった。紛争の取材で多数の死を見てきた。それだけにたくさんの遺体も見てきた。だが、津波の被災地の取材は特に、気分がいいものではない。

地震と津波の被害を受けたインドネシア・スラウェシ島パルで、倒壊した建物と打ち上げられた船のそばを走るバイク(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 津波は、3つの点で他の災害とは異なる──におい、死、破壊だ。においは特にひどい。それは死のにおいで、あらゆる場所に漂い、全てに染み込み、どこに行っても逃れられない、としか表現できない。2004年のインド洋大津波を取材した際には、何年も過ぎた今でもそのにおいにうなされる。今回のインドネシア取材のにおいも同じくらい猛烈だった。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、足早に歩く地元の男性(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 こうした取材は、いくら準備しても、いくら経験があっても関係ない。どのような状況が待ち構えているのか、自分が何をすべきか、ということについては経験を積める。だが、心に負う傷という意味では、いくら経験を積もうとも、初めての時とあまり変わらないように感じる。もしかしたら自分だけかもしれない。だが、このようなことに慣れることはとてもできない。どうしても、まるで初めて見たかのように感じてしまう。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、崩壊したモスクを上空から捉えた様子(2018年10月4日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、崩壊したモスク(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 だからといって、編集者から連絡があったときに、行かないという選択は全く思い浮かばなかった。これは私の仕事で、プロとしてやっていることだ。仕事の中で特に気が進まない部分ではあるが、何が起きているのか、人々は知る必要がある。ジャーナリストとして私が果たせる役割はちっぽけだが、それでもその役割を果たせることに喜びを感じる。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、被害を上空から捉えた写真(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、崩壊した橋(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 自分が現在、拠点としているタイのバンコクから、被災地であるインドネシアのパル(Palu)までほぼ2日かかった。最初にポソ(Poso)に飛び、それから12時間かけて車でパルに向かった。ポソでは何千もの人々が町から避難しようとしていた。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、車で避難する人たちにより起こった渋滞(2018年9月30日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 最初、私たちは生き残った人々と同様の条件下に置かれた。最初の夜はオフィスビルの駐車場で寝て、それから2~3日はビスケットと水以外、何も口にせずに過ごした。

 今回のような被災地に入ってまず行うことは、ロジスティクスの管理だ。電気と、できれば食料と水がある適切な拠点が取材には欠かせない。今回は落ち着くまでに少し時間がかかった。初日は駐車場で寝たが、2日目は保管庫の中だった。その後、1軒の民家の部屋をいくつか使わせてもらうことができた。その家には発電機もあったが、ガソリンを手に入れるのが非常に難しかったため、発電機はもっぱらコンピューターと携帯電話の充電に使った。住人の女性が米と鶏肉を調理してくれた。その時の私たちにとって大ごちそうだった。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、ガソリンスタンドに並ぶ人々(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、水の容器に入れたガソリンを運ぶ人々(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 もちろん、私たちの困難など、地元の人たちの状況に比べればかすんでしまうものだ。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、崩壊した道路をスーツケースを持って歩く女性(2018年10月2日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、がれきから使えそうなものを探して歩く被災者たち(2018年10月2日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 また今回のような災害取材で私が最もつらく感じる取材対象の一つが、集団埋葬地だ。あまりに死者が多く、気温も高く、破壊され尽くしている状況下では、一人一人を個別に埋葬することは不可能だ。だから、集団埋葬するしかない。今回は、技術が発達したせいで、集団埋葬の取材が以前にも増してつらかった。

 最近は通常の取材でドローンを使っている。上空から捉えた画像は、全く異なる視点で物事を見ることができ、圧巻だ。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、崩壊したモスクの周辺で使えそうなものを探している被災者(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島のパルで、崩壊したモスク(2018年10月1日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島のパルで、崩壊したモスクを上空から捉えた様子(2018年10月3日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 だが、集団埋葬地を上空から捉えた画像は、非常に衝撃的だった。埋葬地を地上から見るだけではなく、上から見るとその規模に圧倒される。ドローンのおかげで、今回の津波の取材は、2004年の津波の取材時よりもこたえた。2004年の津波の方が、規模も破壊の程度も大きかったかもしれない。だが、ドローンを使うことで、津波の被害をより鮮明に捉えることができたのだ。

インドネシア・スラウェシ島ポボヤで、地震の犠牲者を集団墓地に埋葬するインドネシア軍兵士(2018年10月2日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
インドネシア・スラウェシ島ポボヤで、地震の犠牲者を集団墓地に埋葬するインドネシア軍兵士を上空から捉えた様子(2018年10月2日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 写真を撮った後には、あまりそのことを考えないように努力している。小さな子供が路上で物乞いをしているのを見た後には、その光景を自分の記憶から必死に消そうとする。だが、いつもうまくいかない。家に戻ってからも考えないように努力するが、結局消すことはできない。自分に子どもがいると、子どもを見た時にどうしてもこう考えてしまう。「もしかしたらあれは私の家族だったかもしれない。誰にでも起こり得る」。自分の娘のことを考えるたびに、鳥肌が立つほどの恐怖を覚えた。もし娘たちに何かあったらどうすればいいのだろう。そんなこと、想像もできない。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、水を飲む被災した子ども(2018年10月4日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
インドネシア・スラウェシ島ドンガラで、道端に立って寄付を募る被災した子ども(2018年10月5日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

 だが、ゆっくりと前に進まなければいけない。あまり考えすぎないようにして、自分の仕事だけに取り組み、においにもどうにか対処し、写真を撮るとすぐ目をそらすようにした。取材のたびに、自分の中の柔らかい部分があまり殺されないように努力した。自分の人間らしさが岩のように硬くならないようにしなければ。そうなるのは、良いことではない。

 私は自分に言い聞かせている。自分が状況を変えられるわけではない。自分ができることは自分の仕事だけだ。ここで何が起こっているかを、世界に知らせることだ。そうして、最も悲惨な映像を自分の心から追い出すようにしている。

大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、生後2か月の息子を抱く被災者(2018年10月2日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP
大地震と津波に見舞われたインドネシア・スラウェシ島パルで、警察のトラックから配られる生きたニワトリを受け取ろうとする被災者たち(2018年10月2日撮影)。(c)JEWEL SAMAD / AFP

このコラムは、バンコクを拠点とするAFP東南アジア写真部門主任ジュエル・サマド(Jewel Samad)が、AFPパリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同で執筆し、2018年10月17日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。