【1月1日 AFP】米国はベトナム戦争で「敗北」に直面し、ソ連はチェコスロバキアの抵抗を受けた。西独ベルリン、仏パリ、メキシコでは学生が蜂起した。今から50年前、世界は反乱と打ち砕かれた希望で揺れていた。半世紀前の動乱の年、1968年を振り返る。

■ベトナム戦争:米国の後退

 米政府は1960年代序盤以降、共産主義国の北ベトナムと対立する南ベトナム政府を支援するために、北が支援していたゲリラ組織「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン、Viet Cong)」に対抗してベトナムに軍を投入していた。

 しかし1968年早々、南ベトナムの首都サイゴン(Saigon)を含む都市にベトコンが大規模なゲリラ攻撃を仕掛けた「テト攻勢(Tet Offensive)」により、米政府は方針の見直しを余儀なくされる。ベトコンの一斉攻勢は最終的には反撃されて終わるが、米国の世論をベトナム戦争介入反対へと転換させた。

 3月末には、当時のリンドン・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)米大統領が、北ベトナム爆撃の部分的停止を発表。ここから長期にわたる米国のベトナム戦争撤退過程が始まり、1975年のサイゴン陥落でクライマックスを迎え、1976年には北ベトナムの下でベトナムは再統一された。

■若者の反乱と抗議行動

 1960年半ばに米国や欧州の大学構内で始まった「米国は帰れ」と唱和するベトナム反戦デモは、1968年には新たな様相を帯びるようになった。世界中で街頭に繰り出した若者らはベトナム戦争に加え、資本主義体制に対する怒りをぶちまけ、さらに性的自由やフェミニズム、そして環境保護をも要求するようになった。

 ドイツでは急進左派の学生運動指導者、ルディ・ドゥチュケ(Rudi Dutschke)を狙った4月の暗殺未遂事件をきっかけに、ベルリンで発生した暴動が他の数十都市にも拡大した。

 フランスでは5月10日にパリで学生らがデモを開始。2日後には労働者が加わり、ストライキにより数週間にわたって仏全土をまひさせた。

 社会運動はイタリア、トルコ、日本にも反響した。

 この年開催されたメキシコ五輪の開幕直前には、学生による抗議デモが警察に弾圧され、多数が殺害された。当局は死者数を33人と発表したが、目撃した外国人らは200~300人が死亡したと話した。

 五輪の中でも抗議の意思が示された。米国の陸上選手、トミー・スミス(Tommie Smith)とジョン・カーロス(John Carlos)がメダル授与の表彰台の上で、黒人の公民権運動を支持する行為「ブラックパワー・サリュート(Black Power Salute)」としてこぶしを掲げ、アフリカ系米国人への差別問題に注目が集まった。