【12月25日 AFP】リアーナ(Rihanna)、ベラ・ハディッド(Bella Hadid)やマドンナ(Madonna)らが愛用するフランスの高級靴メーカー「ロベール・クレジュリー(Robert Clergerie)」の創業者でデザイナーのロベール・クレジュリーは何もせずにいられるタイプではなかった。

 引退して4年後、彼の名を冠したブランドが倒産寸前となった時、クレジュリーは隠居を取りやめ、会社を買いなおした。自ら200万ユーロ(約2億2660万円)を注ぎ込み会社を立て直した。

「私は70歳で、ひどく退屈していた」とクレジュリーは振り返る。彼はギリシャの島々を旅し、ガーデニングやゴルフも始めたが、「本当に飽き飽きしていた。特にゴルフには」。

「あんな風に会社がなくなりそうになるのは本当に辛かった。ほとんどの従業員を知っていたから」「工場に戻った初日に、従業員の女性たちが泣いてくれた」と感情が込みあがっているのが分かる声で語った。

「第2の人生を見つけた」とクレジュリーはAFPに明かす。それは彼のブランドも同じで、「ロベール・クレジュリー」の代名詞でもあるフラットやウェッジドシューズは再び、ファッショニスタたちの間でマストハブなアイテムになった。

 他のブランドがより安価な労働力を得るために海外へと進出する中、クレジュリーはその流行に逆らった。ブランドの工場は、かつてはフランスの靴屋の都市であったロマン・シュル・イゼール(Romans-sur-Isere)最後の工場となった。

 現在83歳となったブランドの創業者がこの業界に飛び込んだのは決して早くはなかった。食料雑貨店の息子として生まれたクレジュリー。「父は私を厳しく育て、24歳まで父の店で働いていた」

■遅咲きのクレジュリー

「一度は米国に渡ったが、(アルジェリアの独立戦争の際)アルジェリアで戦うために呼び戻された。その後、様々な仕事に就いたが、どれも幸せにはなれなかった」とクレジュリーは認める。

 37歳の時、新聞に出ていた広告に応募し、ついに情熱を傾けられることに出合った。「募集――山と海に近いローヌ渓谷(Rhone Valley)にある工場で、マネージャーになる力量の人物」

「私の人生で思いがけない出来事だった」と出版されたばかりの本「Robert Clergerie, the Man Who Shod Women」の中でクレジュリーは振り返る。

 1978年に独立した彼はロマン・シュル・イゼールにある工場を引き取り、3年後に自身の名の元、初めてのコレクションを発表した。クレジュリーの最初のシューズである「パリ」「パコ」「パルマ」は、その時代思潮を具現化した若干ボーイッシュなデザインで女性たちの心を捉え、すぐにヒットした。

「1980年代はディスコやパーティー、わくわくさせるものの最盛期だった」。ビアンカ・ジャガー(Bianca Jagger)にハリウッドの伝説とも言われた女優のローレン・バコール(Lauren Bacall)やマドンナが、パリの彼の店に足しげく通い、当時、年間で1万1000足を売った。

■そして今は違う人が彼女の側にいる

 しかし、会社は急激に成長しすぎ、需要に追いつくためにもっと現金が必要になった。クレジュリーは自身が保有する株を1996年に投資家たちに売った。株式の10パーセントは保有したまま2001年までアーティスティックディレクターとして会社に残った。

「署名して譲渡するのは本当に辛かった」とクレジュリーは話す。「家に帰り吐くほど泣いた」。

 数年でロマン・シュル・イゼールの彼のライバルは事業に失敗し、2005年には彼自身のブランドも窮地に立たされた。

 そんな中、ブランドを救うためにクレジュリーは舞い戻った。ブランドは力強く成長し、7年後、ロマン・シュル・イゼールで靴を作り続けると約束したフランスと香港の投資家に会社と17ある世界中の店舗を譲り渡し、ついに引退した。

クレジュリーは「引退してから5年が経つ」と話し、「やっと自分を切り離し始めている。完全にではないけれども」とも警告した。

「ロベール・クレジュリー」は「私が狂おしいほど愛した女性のようなもの ー そして今は違う人が彼女の側にいる」。(c)AFP/ Katia DOLMADJIAN