【12月14日 AFP】カタルーニャの政治危機の取材は難しい。まったく予測不能で、時に髪をかきむしりたくなるほどいら立たしい思いをすることもあれば、熱情的過ぎて不安を覚えることもある。

 10月1日にスペイン北東部カタルーニャ自治州で本国からの独立の是非をめぐる住民投票が行われた1週間前、私は州都バルセロナに派遣された。中央政府が裁判所による違憲判断を根拠に禁じた投票が実際に行われれば、その後何日かは混乱が続くと思っていたが、そのときは、これほど大ごとになるとは想像もしていなかった。

 10月5日に首都マドリードで会おうと父に声を掛けていたが、父は結局、休暇のほとんどをバルセロナで過ごすことになった。

 カタルーニャ情勢の混乱はその後6週間、収まる気配を見せず、世界のニュースのトップを独占した。そして今も収束したと言うには程遠い状況だ。

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 たとえ憲法裁判所に違憲と判断された投票であっても、警察があれほど乱暴に人々の投票を阻止する動きに出るとは。そうしたことも、まったく予想していなかった。

スペイン・カタルーニャ自治州独立の是非を問う住民投票当日、サンホリアデラミスの投票所前で治安警備総局員に引きずられる男性(2017年10月1日撮影)。(c)AFP/Raymond Roig

 予期していなかったことの連続だった。社会がこれほど二分することも、それまで敬遠されていたスペイン国旗を大勢の人が再び取り出したことも、マドリードの友人たちがこんなに動揺することも。独立反対派のカタルーニャ人たちが、意見を言うのを怖がるようになることも。

 今回の取材はここまで、まるでジェットコースターに乗っているか、真実と真実ではないことを何とかしてつかむ訓練をしているようで、取材相手に聞き返すような瞬間が何度もあった。

 住民投票の前にバルセロナで行われた学生デモは、警察発表で1万6000人、主催者発表で8万人が参加したが、平和的で陽気な雰囲気はそれまでのすべての独立賛成派の集会と共通していた。

 デモの後、持参した昼食を友達と食べていた女子学生の一人に話し掛けた。

 なぜ、抗議しているのか。マドリードの中央政府に抑圧されているからだ、と彼女は答えた。住民投票の実施を阻止するために、司法当局が次から次へと手を打っていたこの時期、この主張はよく耳にした。

 抑圧とはどんな風に? 私の質問に彼女はいくつか理由を挙げ、中央政府はカタルーニャの人々が抗議することを許さなかったと答えた。ちょっと待って、さっきまであなたたちがやっていたことは何? ああ、これは今の話ではないのか、と気付かされることもあった。

スペイン・バルセロナで行われたカタルーニャ自治州の独立賛成派によるデモで、カタルーニャ独立の象徴旗「アスタラーダ」を羽織る女性ら(2017年9月28日撮影)。(c)AFP/Pau Barrena
スペイン・マドリードのコロン広場で行われたカタルーニャ自治州の独立に反対するデモで、スペイン国旗を羽織る女性ら(2017年10月7日撮影)。(c)AFP/Javier Soriano

 独立を支持するカタルーニャ人の多くは、自分たちが抑圧されてきたという思いを抱いている。分離独立派の勢いを食い止めたい中央政府がカタルーニャの自治権を停止し、少なくとも今月の州議会選まで直接統治を敷いている今は、いっそうその思いは強い。

 だが、実際には何万人という人々が街頭で抗議する一方で、日常生活においては以前と変わらないカタルーニャ人たちを目にすると、理解は難しい。

 それはたぶん、私には一党独裁の国、中国に赴任した経験があるからだろう。

 バルセロナで目にしたいくつものデモで参加者たちに自由に話し掛けていると、2008年の北京五輪の前に中国当局の人権侵害に関する批判をガス抜きするために設営された「抗議公園」が思い浮かんだ。

 あそこでは誰も抗議をしていなかった。1人だけ、私がインタビューした男性はその後、警察につけられていた。

 あるいは、中国のチベット自治区では人に話し掛けるときには、後ろから誰かに監視されていないか、確認するようにしていた。記者に向かって話した人物は投獄される可能性があると分かっていたからだ。

 抑圧に関する私の経験はかなりシビアだと思う。

スペイン・カタルーニャ自治州の州都バルセロナで、拘束されたカタルーニャ独立派リーダーらの釈放を求める抗議デモ(2017年11月11日撮影)。(c)AFP/Josep Lago

■警察の蛮行

 唯一、抑圧に近いと感じたのは、住民投票の日の警察の蛮行だ。

 私は朝の5時、土砂降りの雨の中、投票所となっていたバルセロナのある学校で立っていた。警察の介入を警戒して投票所を守るために集まった数十人の人々と一緒だった。

 雨にぬれながらも、熱心な独立支持派の人々と話していると、そのフレンドリーな雰囲気の場を去り難かったが、8時少し前に私はオフィスへ戻った。

 その直後に機動隊が現れ、荒々しく全員を排除した。

 10代の息子を見守るためにやって来ていた夫婦の顔が浮かんだ。ひさしの下に折り畳み椅子を広げ、本を読みながら辛抱強く投票の開始を待っていた老婦人の姿も思い出した。彼らはどうなったのだろうか。

スペイン中央政府に禁じられたカタルーニャ自治州独立の是非を問う住民投票を行うため、投票所となったバルセロナの学校前で雨の中、待機した人々(2017年10月1日撮影)。(c)AFP/Pau Barrena

 カタルーニャでの警察の行動により、数十人が負傷した。ある投票所では、警官隊が発射したゴム弾で男性が片方の目を失明した。

 感情をかき立てられたあの日の後、カタルーニャの政治危機はエスカレートし、予測のつかないものとなっていった。中央政府とカタルーニャの独立派の双方が時間を稼ぎ、時には全く理解不能な状態となった。

 カタルーニャ自治州首相だったカルレス・プチデモン(Carles Puigdemont)氏の10月10日の演説を例に取ろう。このスピーチでついに独立が宣言されるのだと誰もが確信していた。

 だが、彼の言葉は明確でなかった。遠回しに独立を宣言したのかもしれないが、はっきりとした宣言のような類いは保留した。私は彼のどのスピーチにも不安を抱くようになってしまった。

スペイン・マドリードで下院の審議に出席するマリアノ・ラホイ首相(2017年10月25日撮影)。(c)AFP/Pierre-philippe Marcou
スペイン・バルセロナでカタルーニャ州議会の審議に出席するカルレス・プチデモン州首相(肩書は当時、2017年10月27日撮影)。(c)AFP/Josep Lago

■「こちら側」と「向こう側」

 取材とは別に私が驚いた今回の危機の側面の一つは、スペインの二極化だ。

 そのことをおそらく最も実感したのは、2週間近くをバルセロナで過ごした後、マドリードに戻ったときだ。

 それまでスペイン国旗は多分に敬遠されていた。1939~75年のフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍による独裁体制を連想しがちだからだ。その国旗が突然、スペインの首都の無数のバルコニーからつるされていたのだ。

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 近所でも3軒のバルコニーから下がっていたが、1軒は何度もしまっては、また下げていた。家族の中で意見が対立したのだろうか。

 戻ってみると、マドリードの友人たちは悲しみ、また怒ってもいた。彼らは非常に動揺していた。

 友人の一人は香港への出張があり、頭を切り替えられると喜んでいた。

 しかし、その香港でのこと。10月27日に彼女がバーで同僚としゃべっていると、スペイン語訛りを聞きつけて近付いてきた男性から、カタルーニャ州議会が今、独立を宣言したと伝えられた。

 男性はさらに、スペインはなぜカタルーニャ人に対してこうも抑圧的なのかと聞いてきたという。またも同じ言い分だ。

 私の友人はマリアノ・ラホイ(Mariano Rajoy)首相を支持したことはまったくないし、今回の危機に歯止めが利かなくなったのは首相のせいだと非難さえしているが、それでも各自治州に多大な権限を与えているスペインの分権制を擁護しなければならない思いに駆られたという。

スペイン・カタルーニャ州バルセロナで行われたスペイン残留派のデモの際、建築家アントニ・ガウディの建築物「カサ・バトリョ」からスペイン国旗を振る人々(2017年10月29日撮影)。(c)AFP/Pierre-philippe Marcou

 カタルーニャ人もまた、二極化を感じていた。

 バルセロナの街角で取材した独立反対派の人々は、用心深いか、たくさん話したがるかのどちらかだった。どちらにせよ、自分の姓を明らかにしたがる人はめったにいなかった。

 あるフリーランスの女性翻訳者は、住民投票の後、仕事が干上がってしまったと話した。不確実な状況を嫌った企業がカタルーニャから撤退したからだ。

 彼女の知り合いのカップルは、独立問題が理由で別れてしまったという。独立を支持しなかったことを理由に女性の方が「ファシスト」呼ばわりされたことが原因だった。その女性はいつも左派に投票してきたというのに…。

 その彼女は「激怒」し、「傷つき」もした。

 何よりも、独立派の支持者として登録していないと思われる人たちの間では、雪崩のように不安が生じているのに、独立派のリーダーたちはそれを無視していた。

 独立の是非をめぐり深部から分裂してしまったカタルーニャで公然と意見を述べるのは怖いと人々が感じていることが、私にはショックだった。

 取材した独立支持派の人の中には、警察に目を付けられるのが心配だからと言って名前を教えてくれなかった男性さえいた。

 スペインで弾圧を恐れて名乗ることを拒否する人がいるなどという話を書かなければならないことは、これまで一度もなかった。中国ではそういうケースは多数あったけれど。

スペイン・バルセロナで、独立宣言をめぐる審議が行われているカタルーニャ州議会の周囲に集まった人々(2017年10月27日撮影)。(c)AFP/Pau Barrena

■簡単に説明できない「理由」

 私にとって何よりも難しかったのは、独立を求めるカタルーニャ人──推計ではカタルーニャ人の半数──がいる理由について簡潔に説明しようとすることだった。

 さまざまな要素が混じり合い、複雑だからだ。経済的、社会的、歴史的理由、さらにスペインに大打撃を与えた金融危機によって悪化した社会の病理も絡んでいる。

 だが本質的に、心で感じた問題については往々にして、即座に納得のいく答えを見つけようとしても無意味なのだ。そのことに私は気付き始めた。

 例えば、抗議デモで見掛けたあの高齢の女性のように。彼女はスペイン語で話すことを拒み、カタルーニャ語だけを話そうとした。私は初めてそういう状況に出合った。

 女性は、フランコ独裁政権下で公の場での使用が禁止されていたカタルーニャ語の単語を学校で一つ口にするたびに硬貨を払わなければならなかった話をしてくれた。 もちろん、そうした時代は遠くへ過ぎ去ったのだが、その反感は今も残っている。

 あるいは独立支持派の人々からは、中央政府による扱いに「屈辱感」を抱いているという言葉を何度も聞いた。ある男性は、怒りと不安でよく眠れない、自分の父親もそうだ、と語った。

 彼らは、ラホイ首相と中央政府が法を振りかざしてカタルーニャの住民投票を違憲とし、独立派が多数を占めるカタルーニャ議会で採決された法律の数々も無効とするだけで、人々の心をつかむ気はまったくないのだと感じている。

 一方で、州首相を解任されたプチデモン氏や州閣僚らは、そうしたカタルーニャの人々の感情に付け込んで自分たちの大義を突き進めるために、医療や教育といった州が力を注ぐべき地域課題を犠牲にしていると非難されている。

 他方、与党・国民党の保守派は、スペイン・ナショナリズムをかき立てたとして非難されている。

スペインからの独立に反対する「カタルーニャ市民社会(SCC)」が呼び掛けたバルセロナでのデモで、スペイン国旗を掲げて歩く参加者(2017年10月8日撮影)。(c)AFP/Pau Barrena

 そして、スペイン国民の目が今回の危機にくぎ付けになっている間に、国民党やカタルーニャの議員らが関与している汚職は、どちらも都合よく忘れられている…。

 だが、州議会選が今月21日に近付いている今、カタルーニャの独立は見果てぬ夢のように感じられる。

 プチデモン氏は10月、カタルーニャ州議会が独立を宣言した直後に、スペインでは公正な裁判が受けられないとして州閣僚を解任された数人とともにベルギーへ渡った。

 裁判所は他の独立派のリーダーらを拘束し、国家反逆罪と扇動罪での訴追手続きに入った。だが、彼らは法は破ったかもしれないが暴力を振るったわけではなく、この措置は行き過ぎたと感じている人々もいる。

 21日の州議会選の結果がどうあれ、今回の危機で生じた憤りや反感、激しい感情、そして時に異常な興奮がどれだけカタルーニャを傷つけたのか、そしてそれが今後もしこりとなるのか、私は知りたいと思っている。

フランスとアンドラとの国境に近いピレネー山脈のスペイン側、カタルーニャ州ジローナ県のリビアで、8万2000本のキャンドルで描かれたカタルーニャ独立旗のそばを走る少年(2017年9月23日撮影)。(c)AFP/Raymond Roig

このコラムは、AFPマドリード支局のマリアンヌ・バリオウ(Marianne Barriaux)が執筆し、2017年11月29日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。