【10月2日 AFP】背筋が寒くなった。人混みに紛れた同僚を探して視線を走らせた。数秒前、祭りの群衆の中に飛び込んだ彼の姿は消えていた。あまりに長い時間に感じられた。

 夕暮れ時だった。われわれはアフガニスタンの旧支配勢力タリバン(Taliban)の縄張りのど真ん中にいた。いや、正確には、反政府勢力の巣窟であることが明白に分かる孤立した場所にいた。

 アヘン採取用のケシ畑が見渡す限り広がり、ピンクと白の花が蒸し暑い風に吹かれて揺れている。空中には大量の花粉と無数の虫が舞っている。映像記者のラテブ・ノーリ(Rateb Noori)と私は、ケシの実の収穫を取材しようと、政情不安定なアフガニスタン南部ウルズガン(Uruzgan)州のある村に入っていた。アヘンはタリバンの懐を肥やす主要な資金源だ。

 豊作を祝うケシ農園の労働者らに、近隣域から集まってきたタリバンの戦闘員らも加わって、伝統の縄遊び「ドラ(Dora)」が始まった。実り豊かな農園の合間のほこりっぽい空き地で、彼らは対戦相手に向かって長いロープを放ち、相手を倒してはさらに砂ぼこりを巻き上げていた。

(c)AFP/Rateb Noori

 私はこの華やかなにぎわいの中に入り込んで撮影しているノーリ記者を目で追っていた。群衆の中へ飛び込んでいく前に彼の三脚を預かった。祝祭ムードの中、アイスクリーム売りの手押し車が近くに止まった。たまたまそばにいた人が近寄ってきて、シロップのかかった冷たいアイスクリームをおごってくれた。だが、このフレンドリーな態度のせいで、かえって私の胸に疑問がよぎった。周囲に溶け込めるように、地元の人々が着る服を着て無精ひげを生やしているにもかかわらず、よそ者として目立っていたのだろうか。

 ノーリ記者が視界から消えてしまったのはその時だった。私は一抹の不安にとらわれた。しかし数分後には、彼は珍しい祭りの様子を映像に収めて姿を現し、私は大きな安堵(あんど)を覚えた。われわれはすぐさまその場を離れた。

■常に消えない恐怖感

 AFPカブール(Kabul)支局長に在任していた2年半の間、常に消えなかったもの──それは恐怖感だ。いわゆる「終わりなき戦い」を取材する際の、いつ何時、状況が暗転してもおかしくないと神経をとがらせるあの感覚から、決して解放されることがなかった。ただし、アフガニスタンはジャーナリストにとって最も危険な国の一つではあるが、だからと言って伝えるべきニュースを伝えるために方々を取材して回ることをやめることはほとんどなかった。

 赴任中に情勢が悪化するにつれ、気はめいろうとも常時強い警戒感を持ち続けることが、わが取材班を守るために必要不可欠となった。思い付きでは決して行動しなかった。

 どこへ行ってもまず条件反射のように避難経路を探すようになった。平穏だと、嵐の前の静けさではと疑った。小康状態の後には決まってひどい殺りくが待っていたからだ。これ以上悪くなりようがないと思った時でさえ、事態はさらに悪化した。

 四六時中警戒していたにもかかわらず、今年5月31日にわれわれのカブール事務所兼住居のそばでトラックを使った爆弾攻撃が発生した際には度肝を抜かれた。あまりの唐突さに戦慄(せんりつ)を覚えた。快晴の爽やかな朝で、私はベッドで本を読んでいた。鳥が木々に止まってさえずっていたかと思うと、次の瞬間、衝撃とともに耳をつんざくごう音が近所を突き抜けた。

 他の多くの人々と同様、われわれも当初は最悪の事態を想像し、地下の避難室へ急いで逃げ込んだ。支局が攻撃を受けたと思ったのだ。性格の優しい女性清掃員が、私の横で震えながらすすり泣いていた。支局の同僚らに連絡を取ろうと必死になって、携帯電話に指を走らせた。同僚の一人は、非番でなければちょうど出勤時間のはずだった。

アフガニスタン首都カブールで、自動車爆弾による爆発事件の現場に到着した治安部隊ら(2017年5月31日撮影)。(c)AFP/Shah Marai

 その後周囲に飛び散ったガラスを恐る恐るよけながら外に出ると、被害を受けたのがわれわれだけではなかったことが判明した。衛生車で爆発した巨大爆弾は、半径約1.6キロの範囲にある建物の窓を吹き飛ばしていた。通りには遺体が散乱し、空は煙が覆っていた。かつて見たこともないような修羅場と恐怖とがそこにあった。爆弾攻撃には慣れているはずのカブールの街さえ神経がもたないように思えた。

 後に150人以上が死亡したことが分かった。行方不明者の多くは体が粉々に吹き飛ばされてしまったとみられ、遺体さえ見つからなかった。惨劇の大きさを目の当たりにして、私の中のジャーナリストの部分が心の内なる震えを抑え込み、自分を行動へと駆り立てた。この美しい国のために私がどれだけ心を痛めたかについて、一定の明瞭さで書き表せるだけの感覚を取り戻すには数週間かかった。

アフガニスタン首都カブールで、トラック爆弾でできたクレーター(2017年5月31日撮影)。(c)AFP/Wakil Kohsar

■死の照準

 アフガニスタンでは、殺りくの季節が永遠に続く。どこへ逃げようとも、死の照準から外れることはできない。この国では米国が主導した2001年の有志連合による侵攻以来、過去どの時期よりも多くの人が死んでいる。追悼の儀式にも終わりがないように思える。

 この行き詰った消耗戦の中で、子どもたちの「警泥」遊びが「警察と爆弾犯」の鬼ごっこに変わり、幼い子らが細い腕で起爆装置を押す真似をするようになるのを見て、心の傷がどれだけ深いかを思い知っている。老いも若きもアヘンで感覚をまひさせている。心的外傷後ストレス(PTSD)が静かに、じわじわとまん延している。

 墓地は限りなく広がり続け、それ自体生きているかのようだ。カブール市内の霊園で、楽しそうにピクニックしている家族を見掛けたこともある。もしかしたらそこが一番安全だと感じていたのかもしれない──死者に囲まれたその場所こそが。

アフガニスタン首都カブールの雪で覆われた墓地(2014年1月撮影)。(c)AFP/Shah Marai

■永遠の墓場

 アフガニスタンでは、墓場が多くのものの比喩として用いられる。この国は帝国の墓場だ、物語の墓場、破れた夢の墓場。

 アフガニスタンのエルビス・プレスリー(Elvis Presley)こと歌手のアフマド・ザヒル(Ahmad Zahir)の人気が没後40年近くたった今も衰えないことはよく理解できる。ザヒルは、アフガニスタンが終わりなき戦いに突入する数年前にスターになった。道端の売店や携帯電話、カーステレオから流れてくるその軽快なメロディーに多くの人が体を委ねる。その大胆な歌詞が、消え去ってしまった紛争前の近代化時代への郷愁を誘う。彼の曲を聞くたびに、アフガニスタンという国が衰退していることを思い知らされる。

 戦争による最大の被害は、希望の喪失だ。私が知っているアフガニスタン人の若者の中には、国外へ逃れたいと考えている者も少なくない。欧米諸国への移住は生き延びるための扉だが、大多数の者にはそのドアは完全に閉ざされている。

アフガニスタン国軍に入隊した元タリバン兵士。アフガニスタン西部ヘラートにて(2013年6月撮影)。(c)AFP/Aref Karimi

 多くのアフガニスタン人が、反政府勢力と非情な国家のはざまで苦悩を強いられている。紛争が16年以上続き、いかがわしい過去を持つ有力者たちが、反政府勢力との戦いに駆り出されている。自分たちの勢力範囲内で残虐行為に及んでいる横暴な民兵もいれば、軍服を着た拷問者から、少年らを性奴隷にするために拉致する警察官も存在する。

 アフガニスタン侵攻は失敗に次ぐ失敗で、当初欧米諸国が掲げていた、良識と人権に重点を置いた国家樹立という目標はたちまち立ち消えた。治安の悪化で、組織的拷問の危機も生じた。アフガニスタン東部の刑務所への立ち入りが認められているある人権活動家の話では、反政府勢力とのつながりが疑われる受刑者らは、アフガニスタン文化の中で極めて恥辱とされる「子孫を残せない」状態にするために性器を殴打すると脅されているという。同国南部を拠点とする別の活動家は、おぞましい拷問の風習について詳述してくれた。彼は、陰鬱(いんうつ)な冗談も口にした。最近は電気供給が限られているため、電気ショックは最近あまり使われていない、と。

 アフガニスタンは混迷の代名詞になっているとはいえ、気高い人間性が根付いた土地でもある。トルクメニスタンと国境を接するある前線の村では、タリバンが屈辱的な敗走に至った後、目を見張るような結婚式を見た。私はあの結婚式を一生忘れないと思う。

(c)AFP/Wakil Kohsar

 死をも恐れず、地下活動でひそかに詩を書き続ける女性詩人ら。

(c)AFP/Javed Tanveer

 タブーを物ともしない女子スキーヤー。驚くことにイスラム教指導者らが力を添えている。

(c)AFP/Shah Marai

 非道な軍閥や不条理な役人を、怒れる風刺の力で糾弾する勇気あるコメディアンの面々。

(c)AFP/Wakil Kohsar

 アフガニスタンは絶望の淵をのぞき込んでいるようでいて、国民の勇気には決して消えることのない希望が宿っている。(c)AFP/Anuj Chopra

(c)AFP/Behrouz Mehri

このコラムは、AFPサウジアラビア・リヤド(Riyadh)支局のアヌジ・チョプラ(Anuj Chopra)支局長が執筆し、2017年9月14日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。