【8月15日 AFP】私はイラク軍がイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」からモスル(Mosul)を奪還するまでの9か月間、ほぼすべてを取材した。前線で兵士らと一緒に何週間も過ごし、殺人を目撃し、死臭を嗅いだ。

 あまりに長く家を空けたため、数日間の休みで帰宅すると、2歳の娘はもはや私が誰だか分からなかった。なぜそこまでするのか? 私はイラク人であり、ここで何が起きているのかを外の世界に知らせることが、私の義務だと思ったからだ。

 私にとってモスル奪還のための戦いは、サダム・フセイン(Saddam Hussein)政権崩壊後の過去14年間で最も重要だった。なぜならその戦闘こそが、一時はイラクの3分の2以上を支配下に置き、首都バグダッド(Baghdad)に迫る勢いだった残虐な過激派ISの終わりの始まりと考えるからだ。

 この戦闘取材は私に精神的な打撃を与えた。あまりに多くの殺人を見た。死臭が常時漂い、何日間も消えないこともあった。

 モスルの戦いは特に凄惨(せいさん)だった。IS戦闘員らは数年にわたり潜伏した場所に包囲されていた。一般市民がいるせいで、さらなる血が流れた。私はよく狭い路地で、イラク軍とISの一戦を目撃した。自爆ベルトを巻いたままのIS戦闘員らの死体、腐敗が始まった民間人の遺体を目にした。

 私はいつも、自分が見た人々の状況や感情を写真に映し出そうと努めた。戦闘が始まり、路地から出られなくなっておびえる市民、ISから街を解放するために戦う部隊の決意、ISと初めて対戦する兵士らの恐怖──。

イラク・モスル奪還作戦に臨み、旧市街のがれきの中を駆けるイラク軍兵士(2017年4月15日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

イラク・モスル奪還作戦が進む中、旧市街からの避難の途中で一休みする子どもたち(2017年7月5日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 戦闘中は決まって恐怖心が付きまとう。それは起こって当然のものだ。戦闘の真っただ中にいれば、殺される危険が常にある。取材陣は、狙撃手を避けようと常時警戒していた。狙撃手らは高度な訓練を受けていて非常に敏腕であり、ジャーナリストを標的にしているようだった。その上、路地や建物、車に仕掛けられた即席爆発装置(IED)の危険もあった。

 自分が負傷、あるいは死んで家に帰ることを想像した日もあった。IS戦闘員らによって、旧市街の一角に7時間閉じ込められたこともある。われわれは皆、生きて出られないかもしれないという現実を突き付けられた。だがありがたいことに援軍がついに到着し、ISは退散した。

 市民が家を後にし、イラク軍の方へ向かって歩く際には恐怖心が見て取れた。気の毒な人々。彼らが最後に政府軍を目にしたのは、3年以上前だった。その間ISの暴虐を忍ぶ生活を強いられ、政府軍が来れば彼らを殺し、女性を乱暴すると吹き込まれていた。そのため皆明らかにおびえていた──あらゆる人とあらゆるものに対して。

イラク・モスル奪還作戦が進む中、旧市街から避難する住民(2017年7月5日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 そういう状況では、私の役割は取材者というよりも人道的な性質を帯びた。私は人々の方へ歩み寄って大きな声で言った、「あなた方がご無事で何より!」と。気分を楽にしてあげたかったからだ。子どもたちにあげようと、あめを持参することもあった。安全で歓迎されていると感じてもらうためだ。

 泣く子を抱きかかえている女性がいれば歩み寄り、安心感を与えようと「奥さん」と声を掛けた。私に心を開き、IS支配下の3年間の生活について語ってくれることも少なからずあった。ISの下であれほど多くの苦しみを味わった人々に対し、手助けや安心してもらうための声掛けなど、自分にできることは何でも喜んでやった。

 ここまでの大虐殺を取材すると、目の当たりにしてきた数多くの光景が、その後も長いこと頭から離れなくなる。私は2014年、ISがイラク北部シンジャル山(Mount Sinjar)に入った時の、同国の少数派ヤジディー(Yazidi)教徒のことを決して忘れないだろう。何千人もが山頂に包囲され、多くの人が避難を余儀なくされた。

 クルド人自治区ドホーク(Dohuk)でも胸が裂けるような光景を目にした。そこでは女性や子どもたちが野宿しており、橋の下で出産した女性もいた。夫が点滴を手に、妻に覆いかぶさるように立っていたのを覚えている。今では病院や医療施設に行くと必ず、その場面が心によみがえってくる。

イラクのクルド人自治区ドホークで野宿するヤジディー教徒。この1週間前に、元の居住地のシンジャルがイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」による襲撃を受け、避難を余儀なくされた(2014年8月10日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 もう一つ忘れられないのは、モスル西郊で狙撃手の銃弾に倒れた6歳の男児を抱きかかえていた男性の姿だ。彼はわれわれの元に歩み寄り、息子を地面に横たわらせるとすすり泣き始めた。少し落ち着いてから、事情を語ってくれた。

「私は近くの村に住んでいる。妻と息子2人を伴い、IS戦闘員らから逃げようとしていた。ISは妻を銃殺した。私は遺体をその場に残したまま、自宅へ戻った。日が落ち、私は息子2人と再び逃げようと決意した。その途中、息子1人が狙撃手に撃たれて死亡した。私はその子を、道端の暗がりで埋めた」

 だが問題はそこで発生した。彼は誤って、生きている方の男児を土に埋めてしまったのだ。息子は2人共血にまみれており、存命の子は深く眠り込んでいた。疲れ切り、おびえ切った父親は、暗闇の中で間違った息子を選んでしまった。過ちに気付いたときにはもう手遅れだった。後にこの男性は発狂してしまったと聞いている。

イラク・モスル奪還作戦が進む中、子ども2人を抱えながら旧市街から避難する男性(2017年7月2日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 私は涙をこらえられなかった。男性の話を聞きながらあまりのショックを受けた私は、カメラを取り上げて彼の写真を撮ることもままならなかった。私も父親であり、彼の身に起こったことの恐ろしさたるや、本当に胸にこたえた。

 こういった場面が、今もなお私の心から離れない。独りで座り、考え事をしている時はなおさらだ。

 モスル奪還作戦が終わりに近づくと、私は人々が家に帰ったときに見て感じたものを伝えたいと思った。がれきに覆われた家々を見なければ。そのために最適なのは、見晴らしの良い場所だ。結局私が選んだのは、IS戦闘員らが周辺域を監視していた地点だった。その場にたどり着いた私は、モスル旧市街の損壊の規模に衝撃を受けた。シリアにやって来たのかと錯覚するほど、荒廃の規模は甚大だった。

破壊されたイラク・モスル旧市街(2017年7月9日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 破壊がそこまで深刻だとは夢にも思っていなかった。過去にも紛争を取材したことはあったが、これほどの壊滅状態を目にしたのは初めてだった。イラク第2の都市、最も美しいあの街が、今や廃虚と化してしまった。

 戦闘の鎮静化に伴い、民間人、兵士を問わず皆の顔に広がる幸福感を写真に映し出せるのがうれしかった。市民にとって、それはIS支配の悲劇の終わりと、わが家に帰るという夢の始まりの象徴であり、兵士らにとっては、苦しみ抜いてようやく手にした勝利のシンボルだった。

イラク・モスル南方のハマム・アルアリルの避難キャンプに到着し、ひげをそる男性ら(2017年3月11日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 戦いが終わり、街の大部分がISから解放されると、複雑な感情が去来した。私自身もついに家族と過ごせる時間ができるという意味では幸せだった。作戦の展開中、私は1か月以上家を空けては、数日間だけ休みに戻るという生活を続けていた。家に帰っても、2歳の娘は私が誰だか分からなかった。抱き上げると、泣いて母親の元に戻りたがった。家を出る時はいつも、家族は悲しみ不安を抱いた。あまりに多くのジャーナリストが命を落としており、家族は私の身を案じていたのだ。

 同時に悲しくもあった。この戦闘で身近な人を数多く亡くした。彼らがまだ生きていたら、この勝利を一緒に祝うことができたのにと思う。

イラク政府がモスルの解放を宣言したことを受け、旧市街で祝うイラク連邦警察部隊(2017年7月9日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 私の仕事は、イラク軍内の良い人脈に恵まれるかどうかに左右される。自国でカメラマンとして長く働いてきたため、治安当局の中にも知り合いがいる。何年も前からの友人の中には階級が上がり、モスルの戦闘で指揮官を務めた人もいた。こういう人々と直接連絡が取れるのは大きな意味があった。広報担当になった友人もいる。私がイラク人で現地語を話せるということとも相まって、より楽に身動きが取れた。

 またそのおかげで、この戦闘の取材のためにAFPが派遣した他の多くのカメラマンからも一線を画することができた。カメラマンには皆それぞれに独自のスタイルがあり、物事を異なる視点で、異なるアングルから見る。私は当局者らとそういう良い関係を築いていたので、より自由に動けた。

イラク・モスル奪還作戦に臨み、安全な場所を求めて走るイラク軍兵士(2017年6月19日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 継続は力なりという面もあった。私はほとんど常時現地入りしていたため、皆と近づきになれた。来る日も来る日も共に過ごし、戦闘にも同行すれば、固い絆が生まれ、互いを見守るようになる。

 2014年にモスルがISの手中に落ちてから、地元のジャーナリストらによる連絡会もできた。この組織を通じて、軍と政府の広報担当者らとの直接の連絡ルートを確保することができた。チャットアプリでやりとりし、コミュニケーションがスムーズだったおかげで取材準備も楽になり、事務手続きを経ずとも業務に取り掛かることができた。

イラク・モスルで、米主導の有志連合軍がイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」を標的に行った空爆後に立ち上る煙(2017年7月9日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

 ISはモスルの大部分から撤退したとはいえ、モスル内の残る小域やアンバル(Anbar)州などイラク各地の一部を依然掌握している。私はそういった場所の奪還作戦も取材するつもりだ。イラクからISが完全撤退したら、国内の通常の取材業務に戻ろうと思っている。

 モスルの戦闘は恐らく、私が取材してきた中で最も重要なテーマの一つだと思う。私にとって、それは報道の要素と人道支援が入り交じった作業となった。悲劇と歓喜の両方を目の当たりにすることができ、私はそれを生涯忘れないと思う。多くの友を失った一方で、新しい友にも恵まれた。自分の取材に満足している。とはいえ、このようなものを二度と見なくて済むようにと願っている。イラクであれ、世界の他の場所であれ。

 私は2003年のフセイン政権崩壊後のイラクを取材し続けてきた。モスルの戦闘は重要だったとはいえ、この物語の一つの章にすぎない。その戦闘はより大きな戦闘の一章を成しており、悲しいかなこの戦争はまだ終わっていない。これからさらに多くの章が続くはずだ。(c)AFP/Ahmad Al-Rubaye

このコラムは、イラクに拠点を置くアフマド・ルバイ(Ahmad Al-Rubaye)カメラマンが、AFPキプロス・ニコシア(Nicosia)支局のアデル・サルマン(Adel Al Salman)記者およびパリ(Paris)本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同執筆し、2017年8月1日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

イラク・モスル南方のハマム・アルアリルの避難キャンプで、食料の配給を待つ子どもたち(2017年5月25日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye

イラク・モスル南方のハマム・アルアリルの避難キャンプで、食料の配給を待つ子どもたち(2017年5月25日撮影)。(c)AFP/Ahmad Al-rubaye