■将来に不安を抱く40歳投資家

 香港の名高い港を見下ろす超高層ビルのオフィスで働く投資家のセドリック・コー(Cedric Ko)さん(40)は、「この街は、他のどこよりも生活に活気がある。社会の競争や商業的な側面にとっては非常に大きな利点だ」と述べ、エネルギッシュなこの街のにぎわいを称賛する。

 だが2児の父親でもあるコーさんが将来への不安について語り始めると、その口調はトーンダウンした。香港でのびのび育ち、1997年当時はカナダに留学していたコーさんは、若い頃に比べるとせちがらい世の中になったと話す。

「私には、物事を調べて自分で考える時間がたっぷりあった。でも今の子どもたちは違う」「今の子どもたち、特に従順な子どもたちは、政府が常に正しいと信じている」とため息交じりに語った。

 子どもたちはまだ8歳と生後3か月だが、コーさんは2人を違う文化や生活様式を学ばせるため海外留学させることを検討している。他国への移住を考えている香港住民の数は近年増えているが、コーさんもそのうちの一人だ。

 政治および社会的問題の解決には半信半疑だとしながら、「香港の問題はこれからも残ると思う。たとえ今以上に悪くはならないとしても」と話した。

■民主化運動に反対する72歳の中国伝統薬専門店店主

 旺角(Mong Kok)の繁華街で伝統薬の専門店を営むタン・キンファ(Tan Kin Hua)さん(72)は、より良い生活を求めて中国本土南部の村を離れ、香港へとやって来た。軟こうや薬草がきちんと並べられているこの店はタンさんの夢の結晶だ。

「誰もが故郷を飛び出し、大きな街で身を立てる機会を求めていた」と使い古されたそろばんを片手にタンさんは言う。

 香港に住む同世代の多くは、本土の極貧地域出身だ。タンさん同様、政治的な粛清が大規模に行われた文化大革命(Cultural Revolution)という激動の時代に出口を模索した。

 タンさんは、「あの頃は(今ほど)自由じゃなかった」と一言述べただけで、当時のことについてはほぼ触れなかった。

 1972年に列車で香港にたどり着き、しばらくは工場で働いた。当時の日給はわずか8香港ドルだった。香港で使われる広東語を学んだ後、本土で学んでいたという中国伝統薬に再び関わるようになり、1997年になる頃には現在の薬局を開業した。

 タンさんは、3年前の香港の民主化要求デモを「迷惑」だと非難する。このデモの影響で、香港では行政の一部などの機能がまひした。独立運動にも反対し、香港は中国の一部であり、居住者の生活を改善するために皆で力を合わせるべきだと主張した。

 いつかは生活も楽になるはずと信じて疑わないタンさん。「中国政府がこの街を支えてくれているんだ。今に良くなる」と語気を強めた。(c)AFP/Aaron TAM/Elaine YU