■死してものしかかる父親の影

 フランツ・クサーヴァーは17歳の時に親元から逃れ、当時ハプスブルク(Habsburg)家のオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったウクライナ西部リビウ(Lviv)で、裕福な家庭のピアノ教師の職に就いた。

 彼はそれから20年、自分の評判を高めようと欧州各地で音楽を教えたり、演奏したりしていた。

 父親の優れた音感を受け継いだフランツ・クサーヴァーは、400人の聖歌隊を指揮したり、リビウ初の音楽学校を創設したりした。その音楽学校は現在、国立音楽学校として存続している。

 しかし元祖モーツァルトと比較すると、フランツ・クサーヴァーの音楽家としての実績は少なく、強く印象を与えることもなかった。それが最も端的に表れているのが、1842年にザルツブルクで父親のモーツァルトにささげられる記念碑のお披露目の際の式典用に曲をつくるよう依頼された時のエピソードだ。

 自己不信にさいなまれていたフランツ・クサーヴァーは、自分は失望させるだけの「ほとんど才能がない」音楽家だとして依頼を断った。代わりにフランツ・クサーヴァーは父の未完の2曲をカンタータに仕上げた。この曲は式典で拍手喝采を浴びた。

 その2年後、フランツ・クサーヴァーはチェコのカルロビバリ(Karlovy Vary、ドイツ名:カールスバート、Carlsbad)での静養中に胃がんで死去し、同地に埋葬された。

 フランツ・クサーヴァーの墓石には次のように刻まれ、死してもなお父親のモーツァルトの魂が大きくのしかかっている。

「父親の名が彼の墓碑銘となりますように。彼の父親に対する畏敬の念こそが彼の人生の本質だったように」(c)AFP/Nina LAMPARSKI