■とてつもないプレッシャー

 モーツァルトとコンスタンツェは6人の子どもをもうけたが、そのうち成人したのはフランツ・クサーヴァーと兄のカール・トーマス(Carl Thomas Mozart)だけだった。

 国際モーツァルテウム財団の学芸員を務めるアルミン・ブロンジング(Armin Brinzing)氏によると、コンスタンツェは著名な夫の死後、フランツ・クサーヴァーを「第2のモーツァルトにしなければ」と決意した。

 ブロンジング氏は「フランツ・クサーヴァーが2歳の時、彼女はすでに息子にピアノと音楽理論を習わせていた」と語った。

 コンスタンツェは、フランツ・シューベルト(Franz Schubert)やルートウィヒ・ベートーベン(Ludwig Van Beethoven)といった教え子を持つイタリアの作曲家アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)ら、当時最も著名な教師陣を雇った。

 またコンスタンツェは、息子に対して「ウォルフガング・アマデウス」としか呼び掛けなかったという。事実、フランツ・クサーヴァー自身もすべての自分の作品に「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト、息子」と署名している。

 フランツ・クサーヴァーが兄とやり取りした手紙によって、彼が幼いころから「とてつもないプレッシャー」を感じ、「家では厚遇されてこなかったこと」が明らかになった。

 フランツ・クサーヴァーはわずか13歳で、ウィーン(Vienna)のホールで待望の初公演を行った。評論家らはフランツ・クサーヴァーのパフォーマンスを称賛し、ある評論家は「父親のピアノ協奏曲をもう少しゆったりとさせた演奏だとすれば彼は素晴らしかった」と評した。その一方で、この栄光に満足するなと警鐘を鳴らす批評もあった。

「モーツァルトの住居」に展示されている19世紀の主要音楽誌「アルゲマイネ・ムジカリッシェ・ツァイトゥング(Allgemeine Musikalische Zeitung)」の論説では、「モーツァルトの名によって今は寛大に扱われているが、その名が後々大きくのしかかるであろうことを忘れてはならない」と書かれている。