【6月2日 AFP】ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領が1日、地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定(Paris Agreement)」からの離脱を表明したが、長時間の粘り強い交渉を経た環境協定をはねつけ、米国が国際社会の忍耐力を試したのは今回が初めてではない。

 196か国・地域の賛同を得て生まれた地球温暖化対策の国際協定である2015年のパリ協定。世界規模として初となる国際協定が成立するまでの20年間における地球温暖化交渉への米国の関わり方をたどってみる。

■京都

 国連気候変動枠組条約が1992年にブラジル・リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)で調印された当初から、米国はいかなる温室効果ガス規制も「トップダウン」で各国に押し付けられるべきではないと抵抗した。

 米政府が一貫して主張してきたのは、どのガスをどれだけ、いかにしていつまでに削減するかを決めるにあたっては、国家主権が尊重されるべきという意見だ。

 1997年に米国が世界各国とともに合意した京都議定書は、地球温暖化の元凶とされる炭素排出において、最も責任のある富裕国だけに排出削減目標を義務付けるものだった。

 米国は、交渉相手からいくつかの譲歩を引き出した上でこの取り決めに同意。アル・ゴア(Al Gore)元副大統領が1998年に米国を代表してこの条約に調印したが、当時の米民主党政権は同条約の正式な批准に必要な上院の3分の2の支持を獲得することはできなかった。

 そして、クリントン氏に代わり2001年に大統領となった石油王のジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)氏は、父ジョージ・H・W・ブッシュ(George H.W. Bush)氏と同様に、発展途上国には化石燃料を燃やして経済成長への自由を認めながら、一方の富裕国を排出規制で縛るものだとして同条約に反対した。

 同議定書は2005年、ロシアの署名によって発効要件である55か国以上の批准を達成し、米不参加のまま発効した。