【3月13日 CNS】「勘弁してよ、君たちは厳しすぎるね」。7日に北京(Beijing)で開催された人民政治協商会議(政協)で、記者団に質問攻めにされたジャッキー・チェン(Jackie Chan)が漏らした一言に、記者会見場は笑いに包まれた。

 政治協商委員でもあるチェンは、中国電影家協会の副主席でもある。映画業界に入ってから56年、撮影した映画は200本以上。何度も骨折などの怪我と闘いながらチェンは、昨年アカデミー賞生涯功労賞を受賞することになった。かつて、アジアの映画人では日本の黒澤明(Akira Kurosawa)監督、宮崎駿(Hayao Miyazaki)監督、インドのサタジット・レイ(Satyajit Ray)監督のみが受賞していたが、中国人の俳優としては初となった。

「アカデミーから、生涯功労賞受賞の連絡が来たとき、まず第一に受賞したことが信じられなかった。そして次に、自分がこの賞を受けるにはまだ早いと感じた」とチェンは語った。

 1979年に映画監督デビュー。以来、チェンはまさに香港映画の黄金時代を築き上げた。しかし彼自身は「成功」したとはあまり感じていない。チェンは自分の映画について、こう語る。あらすじが無いし、お決まりの台詞「お前、何見てんだよ?」から、すぐ曲芸的な喧嘩(アクション)が始まる。その多くは低予算映画で、例えば『スネーキーモンキー 蛇拳(Snake in the Eagle's Shadow)』や『酔拳(Drunken Master)』では、それぞれ1か所の空き地と寺で撮影をすべて終わらせている。

 過去の映画の中で、ジャッキー・チェンは大衆の一人の役を演じ、その場所で動きやすい動作を展開し、箸や足場なども取り入れ、それが味となり笑いが生まれた。こうして、アクションコメディーというスタイルを築き上げ、チェンはハリウッドに挑戦してきた。

 チェンはハリウッドのオーディションに来た当初のことを振り返った。「何度も、16時間かけてアメリカに飛んで、ただ一回のカンフーをやってみせるだけで帰ってくる。また、もう一回行ってカンフーをやって、結局、英語がダメだと言われ帰ってきたよ」

 国際的な映画スターになるため、米国で英語を猛勉強。「自分らしくない映画」を撮り続けた。英語も話せないのに「アメリカ生まれの若者」の役をやったこともあったと彼は苦笑しながら話す。香港では飛ぶ鳥を落とす勢いだったカンフーだが、アメリカでは「1発で相手を倒す方法はないの?8発も蹴ったのにどうして相手はまだ立ってられるのさ?」などと質問されたという。

「彼らの言うとおりに彼らの映画を撮っていたら、セリフには力がなくなり、映画が出来上がっても誰も見なかった。アメリカでも誰も見ない、中国でも誰も見なかった」。ジャッキー・チェンは米映画マーケットを捨て、命がけの、特殊技術を使わない本物のカンフーアクション映画をとにかく必死に撮り続けた。朝に足が折れても、午後には撮影を再開した。興行収入の善し悪しなどに構わず、とにかく必死に撮った。

 ジャッキー・チェンのカンフー映画の風格は徐々に形成されていった。撮影中、実際の「拳術や立ち回り」以外に、武徳、礼義廉恥などの中国文化を取り入れようと試みた。「唐装」という衣装に身を包むのも今ではトレードマークとなったが、「私は中国人であると、みんなに知ってもらうため」だった。

 これと同時に、中国の映画市場はどんどん勢いを増し、世界から注目されるようになった。2016年、中国映画の上映本数は4万1000本にものぼり、観客動員数は13億7200万人、興行収入は457億元を突破した。

 チェンは「もしも国内だけで自分たちの映画を撮って、競争相手もいなかったら、今日のような興行収入の成果は得られなかったはずだ」と語る。かつての香港映画マーケットはすっかり小さくなり、アクション映画は香港人のためだけに撮られたもので、ハリウッドの影響を受けて質がどんどん低下していったと語った。

 チェンは、「今日は中国が世界のシェアを獲得した」「中国の映画消費層の厚さに国産映画が支えられており、その利益で外国の先進技術を学ぶことができる。中国の映画関係者は努力すれば、もっとうまくいくはずだ」と考えている。

 チェンは、「たとえ誰にも知られず、誰にも見つけられなくとも、同じようなものを一生懸命撮り続けていれば、いつかきっと誰かに見つけてもらえる」「僕からオスカーにアプローチして行ったんじゃないよ」と誇り高く言った。(c)CNS/JCM/AFPBB News