【2月23日 AFP】ドイツの首都ベルリン(Berlin)中心部の私が住むアパートから5軒隣のコミュニティーセンターには、上階へつながるうねった階段がある。だがその赤い木製の手すりは、一般的な高さにはない──私の膝に届くかどうかだ。

 階段を上り切った場所に掛かる表示を見ればその理由が分かる。この施設にはかつてユダヤ人向けの児童院が入っており、この急勾配の階段を上がる際転ばないようにと、無数の小さな手がこの手すりを握ったのだ。無論、ナチス・ドイツ(Nazi)政権が同市の5万6000人近いユダヤ人を東部の「死の収容所」へ送った際、同院の大半の子どもたちも連行されたため、その時までということになるが。

ドイツ首都ベルリンのプレンツラウアーベルク地区にあるコミュニティーセンター入り口に通じる階段の木製手すり。かつてはユダヤ人向けの児童院が入っていた。(c)AFP/John Macdougall

 私はもう20年以上にわたり、この平和で繁栄するベルリンに住んで取材してきたが、公共の場を歩いていて受ける衝撃にまだ完全に無感情ではいられない。ドイツ人ほど過去を記念する国民はおらず、日常の中で通りのあちこちで目にする。特にここベルリン、絶え間なく変貌を遂げることで知られるこの街でさえ、過去は決して過去にならない。

 初めて訪れた人は圧倒されることもしばしばだ。私の出身地、米ボストン(Boston)在住の友人である年上のユダヤ人カップルは、何年も訪独に踏み切れないでいた。2人がついにやって来たとき、彼らはこの街の魅力に深い感銘を受けた一方で、彼らが「背筋を凍らせる要因」と呼ぶものに対して身構えなければならなかったという。それは街の至る所で忍び寄ってくるかのように思える、過去の名残だ。

 私の日々の通勤路にも、美しくにぎやかながら、よく目を凝らすと痛ましい光景が見つかる。それは人々を決して解き放つことのない歴史だ。しかも最大の衝撃に見舞われるのは、既に心構えができている、ガイドブックに載っているような場所ではない。

 私は米建築家ピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman)氏が手掛けた「虐殺された欧州のユダヤ人のための記念碑(Memorial to the Murdered Jews of Europe、通称ホロコースト記念碑)」を、発案段階から2005年の除幕まで取材した。墓石を思わせる無数の石碑の巨大迷路だ。

 確かにその広大さといい立地といい、拡声器を通して話すかのような威力があるが、私の心をざわつかせるのは、近くにある形見や小規模な遺物から聞こえてくるささやきの方だ。

 私のアパート前の舗道には、迫害されたユダヤ人を追悼するための銘板「つまずきの石(Stolpersteine)」が2枚埋め込まれている。子どもの手ほどの小さな銘板に、庭側の棟の小さな部屋に住んでいた母娘、トーブ・イベルマン(Taube Ibermann)さん(享年50)と娘のロッテ(Lotte Ibermann)さん(享年19)がたどった悲運がはっきりと刻み込まれている。

 私は引っ越しの直後にインターネットで検索してみた。するとモノクロの家族写真が見つかった。裁縫師の女性と、手縫いのセーラー服を着て喜びに満ちた表情をしている彼女の子どもたちが写っていた。

(c)AFP/John Macdougall

 国内のユダヤ人に対する締め付けが厳しくなってきた頃、ユダヤ人の子を英国に送る救出活動「キンダートランスポート(子どもの輸送)」によってトーブさんの次女と三女はドイツを脱出することができた。だが長女のロッテさんと、夫に先立たれていたトーブさんは1941年10月29日、今日のポーランド中部ウッジ(Lodz)の強制収容所へ送られたきり、消息が途絶えた。

 彼女らが住んでいた古い部屋には現在、米国人女性とそのドイツ人パートナーが暮らしている。2人とも学者だ。

 これが、あの犯罪行為の理解を超越する非道さを考える時、ごく身近な歴史に関して知ることの意味だ。そこには責任も伴う。イベルマンさん母娘の銘板に擦り傷ができれば、私含め近隣住民が交代で磨き、多数のユダヤ人が襲撃された「水晶の夜(Kristallnacht)」事件が起きた11月9日には白いバラを手向ける。私たちにできるせめてものことだ。

 米国で大学を卒業したばかりの私がドイツに移ってきたのは1990年代。ベルリンに壮大なユダヤ博物館(Jewish Museum)やホロコースト記念碑が建てられるずっと前で、市内の壁にはどこかぞっとするような、昔のままの遺物がまだ目に入った。

 旧ユダヤ人街ミッテ(Mitte)区では、崩れかかったかつての店先に「バター」や「ラム」といった文字が辛うじて判読できた。だがこれら古い目印の大半は、ベルリンにおける近年の急速な都市開発によってパステルカラーのペンキで塗り直されてしまった。

ドイツ首都ベルリンのミッテ区にある、同市最古のユダヤ人墓地の壁に埋め込まれた墓石(2013年10月撮影)。(c)AFP/John Macdougall

 今では市中心部に向かう丘をおりていると、何十もの「つまずきの石」を通り過ぎた後、「ヤッファ(Yafo)」の前に出る。ビーガン(完全菜食主義)料理を提供し、オールナイトでDJがいる一風変わったイスラエル系の店だ。1人のベルリン出身者と、テルアビブ(Tel Aviv)からやって来たイスラエル人らが共同経営している。両市の間で深まっている文化交流をきっかけに、ベルリンに赴いたという。

ドイツ首都ベルリンにあるイスラエル系レストラン「ヤッファ」。(c)AFP/John Macdougall

ドイツ首都ベルリンにあるイスラエル系レストラン「ヤッファ」。(c)AFP/John Macdougall

 そこから静かな通りに入ると、第2次世界大戦(World War II)の空爆の被害を免れた狭い場所に背の低い建物がある。共産主義時代の学校だ。私はその前を数え切れないほど通っていたが、冬になって栗の木が落葉して初めて、戦前にはそこにシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝所)があったと知った。あるストリートアーティストが、白い壁に黒く太い線で、破壊される前のシナゴーグの陰影を帯びた姿を描き出していた。

 さらに歩くと、ローゼンシュトラーセ(Rosenstrasse)に入る。1943年2~3月、収容所に連行されたユダヤ人の夫を持つ女性らが抵抗運動を行った場所だ。

 ナチスのヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)国民啓蒙・宣伝相の日記によれば、当時優位性が主張されていたアーリア人の女性と結婚したことにより、ナチスの法律で保護されるはずだった男性らが、最後に残ったユダヤ人の一部としてかき集められていた。

 夫が拘束されている建物の外で何百人もの女性たちが1週間、昼夜を問わず抵抗運動を行った結果、奇跡としか言いようのないことが起きた。門が開いて守衛が退くと、男たちが駆け出してきて妻の腕の中に飛び込んだ。そこには現在、その瞬間を表現した印象的な共産主義時代の記念碑が立っている。

 旧市街に向かい、かつての金融街を抜けると以前は証券取引所があった場所に至る。そこに1941年にナチスの秘密国家警察ゲシュタポ(Gestapo)が転入し、皮肉にも「ユダヤ人課」という部署を立ち上げ、強制収容を管轄した。博物館島(Museum Island)にある同市最大のプロテスタント大聖堂や、高度文化を誇ったプロイセン時代の寺院などが見渡せる場所だ。現在はガラスと鉄筋でできたくすんだ色のオフィスビルが立っており、その歴史を示す小さな銘板が掲げられている。目を凝らさなければ読めないほど、細かい文字で書かれている。

 国連教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の世界遺産(World Heritage)に登録され、世界中から大勢の観光客が訪れる博物館島への橋を渡る時、19世紀に建てられた新博物館(Neues Museum)へ続く円柱に今も残る弾痕に毎度目を奪われる。その深い傷は、大戦最後の数日間のソ連軍とナチスの交戦の証しだ。英建築家デービッド・チッパーフィールド(David Chipperfield)氏が見事な修復工事を行い、2009年に完成させたが、これらの弾痕は意図的にそのまま残された。

ドイツ首都ベルリン博物館島の円柱に残る弾痕(2010年8月撮影)。(c)AFP/Johannes Eisele

 AFPベルリン支局があるウンターデンリンデン(Unter den Linden)へ回り込むと、ブランデンブルク門(Brandenburg Gate)が見えてくる。1930年代には「褐色シャツ隊」と呼ばれたナチス突撃隊がたいまつを持って行進し、約半世紀後にはベルリンの壁(Berlin Wall)の崩壊に人々が歓喜したこの場所も、私のこの脇道散歩の後では脚注程度に思える。

 果たして記念碑には効果があるのだろうか? 残酷な歴史が絶えず割り込んでくる日々を生きるということは、いったい何を意味するのだろうか?

 ホロコースト記念碑を設計したアイゼンマン氏は、週刊紙ディー・ツァイト(Die Zeit)の最近のインタビューで、国家的な償いの表現を否定する過激主義やポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭が著しい今日の環境であれば、ホロコースト記念碑を建立できたかどうかも疑わしいと、悲観的な見方を示している。

 とはいえ今年に入り、右派政治家が同記念碑を「首都中心部に立つ恥の記念碑だ」と批判すると、たちまち強い反発が広がった。日刊紙南ドイツ新聞(Sueddeutsche Zeitung)は「われわれの記憶の文化は、ドイツで起こり得た最良のことだ」として、国内外との関係性でより平和的な国家を生み出せたのはその文化があってこそと論じた。

ドイツ首都ベルリンにある「虐殺された欧州のユダヤ人のための記念碑(通称ホロコースト記念碑)」で腰を下ろす訪問者ら(2015年4月30日撮影)。(c)AFP/John Macdougall

ドイツ首都ベルリンにある「虐殺された欧州のユダヤ人のための記念碑(通称ホロコースト記念碑)」を訪れた人(2013年1月14日撮影)。(c)AFP/ODD ANDERSEN

 2015年以降、100万人以上の難民申請者らを受け入れようとする政府の決断は、大規模な人道支援によってナチスの過去を償おうとするものだという論調が、特に外国メディアで目立ったが、ドイツ人の多くはこれに憤りを覚えている。

 私もこの見方はやや紋切り型に過ぎると感じる一方、恐怖と苦しみ、さらには人類の良識と勇気の行為を想起させるこれほど多くのものに囲まれている分、ドイツ人の大多数は他国民の大半に比べて、手を差し伸べる傾向がより強いのかもしれないという気は確かにする。

 アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)首相の寛大な難民受け入れ政策に対する反発が強まっているとはいえ、最近の世論調査では300万~400万人のドイツ人が難民支援のボランティア活動に定期的に取り組んでいることも明らかになっている。

 冒頭で触れたわが家の通りにあるコミュニティーセンターも、そうした活動を行っている。スタッフは子ども服や玩具、本の寄付を募っては、シリアやイラク、アフガニスタンの惨禍を逃れ、ベルリンで新しい生活を始めようとしている家族らに提供している。(c)AFP/Deborah Cole

ドイツ首都ベルリンのプレンツラウアーベルク地区にあるコミュニティーセンター。かつてはユダヤ人向けの児童院が入っていた。(c)AFP/John Macdougall

このコラムは、AFPベルリン支局のデボラ・コール(Deborah Cole)記者が執筆し、2017年2月1日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。