【1月16日 AFP】パキスタンの自分が住んでいる地域で「カメラウーマン」として働き始めて数年後、私の仕事に怒りを募らせた男性の集団に襲われた。彼らは私を押し倒し、カメラを破壊した。心配した母やきょうだいは、ジャーナリズムの仕事はやめて事務職か家でできる仕事を見つけた方がいいと言った。でも私は拒んだ。

「パキスタンで女性が100%安全でいられる場所なんて、どこにもない」と私は家族に言った。「どこへ行っても危険はあり、どこへ行ってもリスクがある。私はこの仕事を分かっているし、リスクがあってもこの仕事が好き。危険の中で仕事をすることは、私を強くする。生きていることをより実感できる」

 パキスタンで報道写真家やカメラウーマンとして働くことは容易ではない。第一にこの国の社会は極めて保守的であり、とりわけ私が住むパンジャブ(Punjab)州の中心都市ムルタン(Multan)は女性に対する暴力が多い地域として知られる。

 ここではいわゆる「名誉殺人」や、村議会が認めた上での集団レイプが頻繁に起きており、紛争解決の手段として少女を相手に贈るといった話も多い。危険を冒して家の外に出た女性は皆、敵視されるのだ。
 

パキスタン・ムルタンの自宅で取材に応じる酸による襲撃の被害者アシヤ・ビベさん(35)。同国で酸によって襲撃される被害者は通常女性が多い(2012年3月撮影)。(c)AFP/Bay Ismoyo

 女性の活動として皆が見慣れていないことをすれば、さらに多くの反感を買う。ニュース映像の撮影もそうだ。私はよく片方の目でカメラのファインダーをのぞきながら、もう一方の目では周りにたかってきて私をいやらしい目つきで見ている男たちに注意を払う。過激派の取材のために南部の地方部へ行くときは、特に慎重になる。

■さえない始まり

 私が初めて映像の世界に飛び込んだのは18歳のとき。まったくの素人だった。近所の男性に結婚式の撮影を手伝ってほしいと頼まれた。女性たちの集まりを撮るために女性の撮影者が必要だったからだ。それまでカメラを一度も持ったことがなかった私に、彼はVHSの大きなビデオカメラを渡し、手短に撮り方を教えてくれた。

 私が撮った映像の出来は悪くなく、彼からまた次の仕事を頼まれた。私はうれしかった。父がヤギを売る商売で得ていたわずかな収入を補うことができたからだ。だが2度目の仕事で、私はカメラのセッティングを間違い、映像がすべてエラー画面になってしまった。仕事の発注者はとても怒って、その近所の男性に撮影料を払わなかった。私は撮影の仕事をやめて学校を続けた。

 そして12学年まで修了して卒業証書をもらうつもりでいたが、母が病気になったために中退を余儀なくされた。病院では母の世話、家では母の代わりに家事をして、2人のきょうだいの面倒をみなければならなかった。

 私はあの隣人、イクバル・バットにもう一度連絡し、撮影の仕方をちゃんと教えてくれるよう頼んだ。彼はそれに応じてくれ、私は間もなく、結婚式の撮影で1日に400ルピー(約4500円)を稼ぐようになった。映像の編集も学び、オフィスの仕事もするようになった。

パキスタン・カラチで撮影された花嫁(2013年11月撮影)。(c)AFP/Rizwan Tabassum


 

パキスタンの結婚式は時にとても盛大に行われる。カラチで行われた合同結婚式で祝福される花婿ら(2013年3月撮影)。(c)AFP/Asif Hassan

■ニュースの世界へ

 ジャーナリズムの世界に入ったのは、その1年後の1997年のことだ。80キロ離れた町、デラガジカーン(Dera Ghazi Khan)の結婚式で屋根が崩落して死者が出た現場を撮影してほしいと、国際的な報道機関から依頼があった。

 私は上司のイクバルと一緒に向かった。その地域はとりわけ保守的だったので、彼は自分では家の中に入れてもらえないと考え、私を連れて行ったのだった。

 その一家は屋上で結婚式をしていたのだが、人々の重みに屋根が耐え切れず崩落した。何人が亡くなったか正確には覚えていないが、女性や子どもを含めて10人程度ががれきの中に生き埋めになっていた。私は動画だけでなく写真も撮影した。このとき以来、私はイクバルや他の報道写真家たちと一緒にニュースの撮影に行くようになった。

■プロとして直面する危険

 取材にはニュースならではの危険が伴い、数えきれないほど多くの壁に直面した。初めて危険な状況に直面したのは2001年10月、ムルタンの南西約360キロに位置するジャコババード(Jacobabad)で起きた抗議運動を取材したときだった。

 私は、同年9月11日の米同時多発テロ事件後に米軍に移譲された空軍基地の外部を撮影していた。デモ隊は、アフガニスタンを空爆するために米軍に基地を移譲することに反対していた。警察は何百人ものデモ隊を襲い、棒で殴り、催涙ガスを浴びせていた。14人が負傷し、200人が逮捕された。

 それは私がその時までに取材した中で最も暴力的なデモの一つだった。警察は自分たちの前方にいる人たちを誰彼なしにたたきのめした。記者やカメラマンでさえ標的にされた。私はその暴力の真っただ中で、どうすればいいか分からなかった。何とかしてその場にとどまり、撮影を続けた。人々は四方八方へ走り、警察は彼らを追いかけ警棒で殴っていた。生きて家に帰れないのではないかと思った瞬間もあった。どうやってあの暴力の嵐に巻き込まれずに済んだのか、いまだに分からない。

 

パキスタンのジャコババードで起きた抗議デモと警官隊の衝突(2001年10月撮影)。(c)AFP/Aamir Qureshi

 仕事をしていて恐怖を感じたのは、その時が初めてだった。みんなが着飾って笑い、幸せな表情を浮かべ、女性たちが一番いい金銀のアクセサリーを身に着け、ビーズが刺しゅうされたカラフルなドレスをまとっている結婚式の華やかさとはまるで違った。そのデモの現場は、完全なカオスだった。デモ隊と警官隊が怒りに任せて至る所で衝突し、催涙ガスで目をやられ、窒息しそうで、危険だらけだった。

 

パキスタン・カラチの合同結婚式で撮影された花嫁(2013年3月撮影)。(c)AFP/Asif Hassan

 だがそうした中でも私は頭を上げ、そのカオスと暴力を撮影しなければならなかった。そうして撮った映像は国際的なニュースネットワークで放映され、私は大きなやりがいを感じた。いい仕事をやり遂げたというだけでなく、男性ジャーナリストたちと肩を並べて困難な状況下で取材することができたのだ。

 男性と平等であるという自信──パキスタンの女性にとって、その感情がどれだけ力強いものであるか、うまく表現することは難しい。ただ言えるのは、ニュースの仕事を続けたいと実感したのはその時だった。やりがいがあって、ダイナミックだった。この仕事で、名声を得られるかもしれないと思った。パーティーを撮るビデオグラファーより尊敬されるだろうとも思った。

 最初に書いた、カメラを壊された(それでも撮ろうとした)別の暴力的なデモの後で家族に言ったように、危険な状況で働いているときほど、自分が生きていることを強く実感できる。そうした取材が私を強くした。

 これまででおそらく最も危険な状況に遭遇したのは、昨年の6月だ。不倫関係にあった女性から酸をかけられて死亡した男性の家を訪れたときだ。カメラを見た男性の家族は全員激高した。自分たちが悲しみに暮れているところに私が現れ、加害者を「楽しませる」ために彼らの苦痛を撮影するつもりかと言われた。何人かの男性が私を押しのけ始めた。助手と私を囲んだ何十人もの男性たちは叫び、ののしり、荒れ狂っていた。私たちは命を守るためにその場から逃げるほかなかった。

■悲劇に打ちひしがれ

 私の人生のプライベートな面と仕事が交わったのは2005年、上司のイクバルと結婚したときだった。彼は前妻と死別していた。

 何年間も一緒に働くうち、イクバルと私は互いをよく知るようになっていた。彼はいつも私を励ましてくれ、女性も男性と同じように働けることを示すために勇敢になれと言ってくれていた。

 妻が亡くなった後、彼は私にプロポーズした。彼の仕事と子どもの両方を、私が切りまわせると思ったからだ。私の家族も少しずつ私の仕事を受け入れ、娘の自立を確信するようになっていた。私はとても幸せだった。

 

パキスタン・イスラマバードで撮影を行う、本記事を執筆したシャジア・バッティ氏(2016年8月撮影)。(c)AFP/Aamir Qureshi

 しかし、悲劇は3年後に訪れた。血圧の高かった夫が突然、亡くなったのだ。今から6年前だった。私は打ちのめされ、どうすればいいか分からなかった。孤独と無力感に襲われた。自分が産んだ子どもはいなかったが、彼と前妻の子どもたちを育てていた。私たちは彼の実家の隣に住んでいたが、彼が死ぬと、彼の家族から出ていけと言われた。私は自分の実家に戻り、人生の再スタートを切った。

 さまざまなニュースネットワークのために働き始めた。パキスタンが大洪水に見舞われた2010年のことで、仕事はたくさんあった。爆発事件や犯罪から、ラクダと犬のけんかまで取材した。

 集団レイプの被害者で、裁判に訴え反撃したパキスタン人女性、ムクタル・マイ(Mukhtar Mai)さんも取材した。法廷で闘った彼女の勇気は、世界で希望と強さのシンボルとなった。

 マイさんのストーリーは私が最も力を入れている取材だ。レイプを糾弾する彼女の声が、パキスタン中部の小さな村から世界の隅々へと響き渡るのを見た。

 パキスタンの小村の1人の女性が反レイプ活動の世界的な象徴となり、少女たちのために学校を設立したり、夫や家族の暴力から逃れてきた女性たちを保護するシェルターを作ったりする姿をカメラに収めるのは、特別な経験でもあった。彼女は人々を鼓舞する女性だ。

 

パキスタン・ミルワラに自ら設立した女性保護センターで取材に応じるムクタル・マイさん(2011年2月撮影)。(c)AFP/AMIR QURESHI

 女性のジャーナリストにはメリットとデメリットの両方がある。メリットは、男性がアクセスできない場所でも、写真や動画を撮ることができることだ。私は男性にも女性にも話しかけることができるし、特に女性とその親族の男性たちが、男性ジャーナリストの撮影を嫌がる場合に私は有利だ。

 一方、ムルタン市内ではほとんどの場合、私は一人で取材ができるが、女性ジャーナリストを見慣れていない郊外の町や村では、一人で取材することは考えられなかった。これがデメリットだ。

 私が撮影していると、必ず注目を集める。ただ好奇の目で見る人もいるが、混み合った場所で撮影しているときは、多くの男性が私を押したり私に触ろうとしたりする。そうしたいやらしい手を逃れながら、重要なショットを狙うのは容易ではない。

 だから私は仕事をやりやすくするために、男性の助手を雇った。一緒に現場に行き、見習いとして仕事を学びながら、わずらわしい男性たちを追い払ってくれる助手だ。私の個人的なボディーガードと言ってもいいだろう。

 長年の間に私の下で働いた多くの男性たちが現在、ムルタンの主要テレビ局のカメラマンになっている。彼らの名前は明かさないことにする。恥ずかしく思ったり、男性の同僚から仕事を「女に教わったのか」となじられたりするかもしれないからだ。

 彼らはいったん独り立ちすると、女性から教わった過去を振り返りたがらず、忘れようとする。彼らが暮らす場所を考えれば、驚きではない。ここは女性が社会で認められるために日々奮闘しなくてはならない、男性優位の国なのだから。

 でも彼らが女性に教わった事実を認めようが、認めまいが構わない。私さえ覚えていれば。(c)AFP/Shazia Bhatti

 

パキスタン・イスラマバードで撮影を行う、本記事を執筆したシャジア・バッティ氏(2016年8月撮影)。(c)AFP/Aamir Qureshi

このコラムは、パキスタンのムルタンに拠点を置くビデオグラファーのシャジア・バッティ(Shazia Bhatti)氏が、首都イスラマバード(Islamabad)のマスルール・ジーラーニー(Masroor Gilani)記者、AFPパリ(Paris)本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同執筆し、2016年12月14日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。