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真珠湾攻撃から75年──出撃する戦闘機見送った元整備兵

2016年12月6日 17:16 発信地:大阪

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真珠湾攻撃から75年──出撃する戦闘機見送った元整備兵
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大阪の自宅でAFPの取材に応じた瀧本邦慶さん(2016年12月3日撮影)。(c)AFP/Behrouz MEHRI

【12月6日 AFP】大阪在住の瀧本邦慶(Kuniyoshi Takimoto)さん(95)は、75年前の1941年12月7日、米ハワイ(Hawaii)州の真珠湾(Pearl Harbor)へと向けて、空母「飛龍(Hiryu)」から飛び立つ攻撃機をその目でしっかりと見ていた。

 存命の旧日本軍の兵士は、今や数少なくなっている。かつて攻撃機の整備兵を務めていた瀧本さんは、「あんな大きな国と貧乏の何もない国がやって大丈夫かなっていうことを感じましたわ」と述べ、真珠湾への攻撃で浮かれていた国内のムードに不安を覚えたと、自宅で応じたAFPの取材に語った。

 瀧本さんは、「始まったばかりじゃないですか。だまし討ちみたいなもの」と真珠湾への攻撃について話し、奇襲攻撃だったことを考えると、ある程度の成功は保証されていたも同然だったと強調した。

 瀧本さんら乗組員は、空母がハワイに向かって出航した後、その目的について初めて耳にした。その時はさすがに動揺したという。

■「命令が出たら命がけ」

 操縦士や整備士らは一貫して冷静だった。攻撃機は1機ずつ順番に飛び立ったが、特別な送り出しなどはなく、「万歳」の声も上がらなかったという。

 瀧本さんは、「特攻隊の映画なんかでする、あんなことは全然ないですわ」と語気を強め、そして「命令が出たらもうこっちも命がけでやらんといかん」と続けた。

 また、米国を攻撃するリスクについての不安はあったが、操縦士らを支えているという自負はあったとし、彼らとの信頼関係については「これは無言のうちにある程度ありますわ」と話した。

 日本は当時、フィリピンやシンガポール、オランダ領東インドなどへの攻撃も行っていた。永遠に続くと思われた欧米による植民地支配を、一気に覆そうとする勢いもあった。ただ当初の優勢は長続きせず、その流れはたちまち変わる運命にあった。瀧本さんの不安は的中した。

 真珠湾攻撃が行われた12月7日を、当時のフランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)米大統領は「屈辱の日」と表現し、国民の団結心をあおった。

 1942年6月、激しいミッドウェー海戦(Battle of Midway)で米軍の空爆を受けた飛龍は大きな炎に包まれた。そして、瀧本さんを含む乗組員500人は生き残ったが、1000人が死亡したという。付近にいた日本の船にやっとの思いで救出された当時の光景について瀧本さんは、「地獄ですわ」と説明した。


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