【11月28日 AFP】貧しい島国ハイチに先月、大型ハリケーン「マシュー(Matthew)」が上陸した。何百人もが命を奪われ、一部壊滅的な被害を受けた同国各地へ赴いたのは、距離によるフィルターを通さずに、この目で見たそのものを伝えたいと思ったからだ。今日の世に存在しながら元々多くのものを持たなかった人々から、自然災害が何もかもを奪ったその光景を目の当たりにすれば、被災者の悲しみや怒り、痛みに心を動かされずにはいられない。

マシュー通過直後のレカイ。(c)AFP/Hector Retamal

 マシューが先月3日夜から翌4日朝にかけてハイチを直撃した直後は通信も乱れ、死者数や被災規模の把握にはかなりの時間がかかった。マシューがハイチを抜けキューバへ向かった4日の初報では、死者は12人足らずとされていた。だが6日になるとその数は108人になり、さらに数日後には500人を超えた。

 ハリケーンの上陸は予報されるため、取材に備える時間はある。マシューがハイチで土砂災害を引き起こしかねないという情報も1週間前に入っており、われわれはバッテリーや食料など必需品の備蓄を開始した。とはいえこの嵐がここまで猛烈で、これほど壊滅的な被害をもたらすとは想像もしていなかった。

 ハリケーン取材は、上陸のずっと前から始まり、通過後もずっと後まで続く。マシューがハイチを直撃する2日前、まだカリブ海(Caribbean Sea)上空を進んでいた際、われわれは住民がどのように嵐に備えているかを見ようと首都ポルトープランス(Port-au-Prince)周辺で車を走らせてみた。

 行ってみて分かったのは、ハイチ上陸時には5段階でカテゴリー4に分類されるとみられる強力なハリケーンが接近していることさえ、大半の人が知らないということだった。ただ貧しい漁村の漁師らは知っており、数日前から海に出るのは差し控えていた。

ハリケーン襲来前、レオガンでサッカーをする。(c)AFP/Hector Retamal

 マシュー上陸予想時刻の数時間前、私は同僚と共に首都の南西に位置するレオガン(Leogane)へと向かった。

 そこには浜辺に面した小村がある。雨粒が落ち始め、風が強まってきた。ビーチ付近では、人々が漁船の横で音楽を聴き、子どもたちはボール遊びをしていた。誰もが、風雨はいつものように過ぎ去るだろうと思い込んでいた。

 マシューがハイチを通過した3日夜から4日にかけて、われわれは同国南西部の被災状況を把握しようと奔走した。最初に土砂崩れが発生した地域で、最も深刻な被害が見込まれたからだ。

 数時間の睡眠をとった後、私たちは首都の状況を見ようと外に出た。人々は浸水した道を往来していた。だがその後南西部でわれわれを待ち受けていた光景に比べれば、さほどの被害ではなかった。

マシュー通過後のポルトープランス。(c)AFP/Hector Retamal

 その時目指していたのは、最も甚大な被害を受けたと伝えられていた南西部のレカイ(Les Cayes)入りすることだった。道路は氾濫したディグ(Digue)川によって分断されていた。川を歩いて渡る人もいれば、50グールド(約90円)を支払い、背中におぶって運んでもらっている人もいた。4WDに乗っていたわれわれは、重機が排水作業を行い、トラックやバスが通行できるようになるのを待ってから進んだ。

ハリケーンの2日後、ポルトープランス南西部の川を渡る。(c)AFP/Hector Retamal

 車を走らせながら、多くの家屋や森林、農地が被災しているのが見えた。ただそこまで激しい被害でもなかった。真の影響を目の当たりにしたのは、レカイ郊外に着いた時だった。

 多くの人が文字通り全てを失っていた。皆必死で助けを求め、食べ物を求めていた。持っていたわずかなものを嵐に奪われたのだ。浸水した家の前で水の中にたたずむ子どもたち、川を渡ってつましい住居に戻ろうとしている人々──そういう人々の姿を目にして、言葉では言い表せない悲しみを覚えた。

 このような状況で、距離を保ち続けるのは不可能だ。少なくとも私にはできない。こういう人々から目を背けられない。逆に、彼らの状況をなるべくはっきり見せたいと思う。

 窮状に置かれた人々を写真に収めながら、自分は正しいことをしているのかとよく自問する。だがたどり着くのはいつも同じ結論だ。何もかもありのまま見せること、それ以外にすべきことはないのだと。

Casanette村の、かつて家があった場所の前。(c)AFP/Hector Retamal

 そして、そういう状況に動揺したままでいるわけにもいかない。私は被写体となった人々と軽く抱き合ってから、その場を立ち去ることが多い。翌日彼らがどうしているか、様子を見に行くこともある。このような状況に置かれた私の心中を駆け巡る全ての感情を、私は写真を通じて伝えることができる。現場で起きていることを見せる──私にはそれができるというだけではいけない、そうする義務がある。

 レオガンの例を挙げよう。ポルトープランスの外れにあり、嵐をやり過ごせると思っていた人々が音楽を聴いたり、子どもたちがボールで遊んだりしていた、あの小村だ。私はそこへ戻ってみた。道路は氾濫したルヨンヌ(Rouyonne)川によって遮断されていた。私は川の上流へ向かった。

レオガンでハリケーン後、ルヨンヌ川を渡ろうとする人々。(c)AFP/Hector Retamal

 そこでジョナタンという子どもに出会った。泥だらけになった家を掃除する母親を手伝って、水をくみに行っていたという。近くにはフランキーという子もいた。はだしのまま冷たい水に浸かり、シャツの背中はびしょぬれだった。私はこの子たちに起こったことに関心を示す人が、世界中にどのくらいいるだろうかと思った。

レオガンで母親にきれいな水を運ぶジョナタンさん。(c)AFP/Hector Retamal
浸水した家の中で立つフランキーさん。(c)AFP/Hector Retamal

 南部のレカイでは大勢の人々が、誰も助けに来てくれないと不平を漏らしていた。彼らの多くは全てを失っていた。それまでは粗末ながらも小屋があった。だが今ではもう何もない。

 われわれはさらに西方の町レザングレ(Les Anglais)を目指した。ハリケーンの目が通過した地域だ。高波と風雨によって破壊された小さな漁村に入った。壊滅的な様相を呈していた。がれきに覆われていた。それまでは家や木立だったものの残骸だ。

 無傷で残った家はなく、ほとんどが全壊していた。そもそも、ハリケーンの威力に耐えられるように建てられた家など皆無に等しかった。そこでは多くの人が、シェルターになりそうなものをこしらえようと、がれきの中から端材を拾い集めていた。

ハリケーン後のレカイ。(c)AFP/Hector Retamal

 夕方、レジネルソンという若者がココナツミルクを私に差し出してくれた。唯一安全な飲み物だ。彼の家に残っていたのは、壁と屋根の一部だけだった。彼もまた、何もかも失っていた。それでも笑顔を失わず、自分が持っているわずかなものを、客人に分け与えてくれたのだ。このことも、私はぜひ伝えなくてはならない。

 ハリケーンの通過後2週間近くたってから、私はポルタピマン(Port-a-Piment)の町を訪れた。被災後に広がったコレラに感染した人々の写真を撮らせてもらった。大雨が降っていて、苦境にさらなる追い打ちをかけていた。家屋の大半が屋根を失い、中にいる人々は降りしきる雨をしのぐすべもなかった。

 私はジュドラン(18)とジュドリン(21)という姉弟に会った。家に近づいてみると、ジュドランが家の中で震えながら立っているのが見えた。彼は家の周囲をじっと見ていた。ハリケーンで深刻な被害を受け、今度は屋根に開いた穴から雨がシャワーのように降り注いでくる家の周りを。どこもかしこも水浸しだった。

 私はその姉弟と長い間一緒にいた。なぜ他の場所にシェルターを探そうとしないのかが不思議だった。もしかしたら、手元に残ったわずかなものを手放すまいととどまっていたのかもしれない。

自宅にとどまるジュドリンさん。(c)AFP/Hector Retamal

自宅にとどまるジュドランさん。(c)AFP/Hector Retamal

 今ハイチには、ジュドリンとジュドランのような人が何千人もいる。ちゃんとしたシェルターも、十分な食料もない人々。壊れた家に残り、通り過ぎて行ってしまう救援車両を見つめている。彼らの元には、まだ何の援助も届いていない… (c)AFP/Hector Retamal

このコラムは、ハイチに拠点を置くエクトル・レタマル(Hector Retamal)カメラマンがピエール・セレリエ(Pierre Celerier)記者と共同執筆し、パリ(Paris)本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者が英文に翻訳し2016年10月28日に配信された記事を日本語に翻訳したものです。

ハイチ南西部ジェレミー。ハリケーンで被災した多くの家が防水シートや草で覆われている(上:2016年10月22日撮影、下:2016年10月10日撮影)。(c)AFP/Hector Retamal