シャー・マライ(Shah Marai)は2018年4月30日、アフガニスタンの首都カブール中心部で起きた自爆攻撃を取材中、集まった報道陣を標的にしたとみられる2件目の自爆攻撃で死亡した。カリスマ性と勇気を備え、同国を苦しめ続ける紛争の報道に尽くしたジャーナリストだった。

 このコラムは、マライ氏が生前、アンヌ・シャオン(Anne Chaon)記者と共同執筆し、パリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者が英文に翻訳し、16年10月14日に配信された記事を日本語に翻訳したものです。

【11月9日 AFP】アフガニスタンにとって、米国が進攻を開始した直後は大きな希望に満ちた黄金の日々だった。タリバン(Taliban)に支配されていた暗黒の時代が終わり、ついにより良い生活への道を歩み始めたかに思われた。だが15年を経た今、その希望は消え去り、生活は以前よりもさらに過酷さを増している気がする。

トラックを使った自爆攻撃を受けた直後のカブールの市場(2015年8月撮影)。(c)AFP/Shah Marai

 私がAFPのカメラマンとして働き始めたのは、タリバン政権下の1998年だった。タリバンはジャーナリストを嫌ったため、私はいつも身を潜めて仕事をしていた。外出時は伝統的な民族衣装を着用し、写真は手に巻いたスカーフに隠した小さなカメラで撮っていた。

 タリバンによる規制のせいで、業務の遂行は困難を極めた。人だろうが動物だろうが、あらゆる生物の撮影が禁じられていた。

タリバン政権下のカブールの国立競技場で、窃盗犯の手を切り落とす場面を見るタリバンの戦闘員と住民(1998年8月撮影)。(c)AFP/Stefan Smith

 ある日、私はパン店の前にできた行列を撮影した。当時の生活は苦しかった。人々に職はなく、物価は高騰していた。数人のタリバン兵が近づいてきて、「何をしているんだ」と詰め寄った。

「何も」と私は答えた。「パンの写真を撮っているだけです!」幸いデジタルカメラ以前の時代で、私がうそをついていないかどうか確かめられずに済んだ。

アフガニスタン女性とパン。カブールで(2001年6月撮影)。(c)AFP/Shah Marai

 その頃の私は、自分が撮った写真に署名することはほとんどなかった。要らぬ注目が集まらないよう、ただ「特派員」としておいた。

■一人取り残される

 当時はAFPの事務所もなく、現在支局が置かれているのと同じ、首都カブール(Kabul)郊外のワジル・アクバル・ハーン(Wazir Akbar Khan)地区にある家を使っていた。特派員らが交代でやって来ては、北部同盟(Northern Alliance)がタリバンと対峙(たいじ)していたショマリ(Shomali)平原の最前線へ定期的に取材に向かった。

 カブールに残っていたのは、英BBCに加え、AFP、AP、ロイター(Reuters)の3通信社だけだった。2000年にはついに、外国人は全員退去させられ、私は一人でAFPの事務所を守ることになった。情報は衛星電話を使って、パキスタンの首都イスラマバード(Islamabad)の支局へ伝えた。

 2001年9月11日の米同時多発攻撃は、BBCで見た。その際、アフガニスタンに影響が及ぶとはみじんも思っていなかった。数日後イスラマバード支局から、「米国がアフガニスタンを攻撃するといううわさがある」と警告を受けた。

米軍の攻撃が予期されるカブールで、壊れた戦車を修理するタリバンの戦闘員(2001年10月2日撮影)。(c)AFP/Shah Marai

 それから1か月もたたない10月7日、タリバンが首都を置いていた、パキスタン国境に近い南部カンダハル(Kandahar)への空爆が始まった。

 私がカブール上空を飛ぶ飛行機の音を聞いたのは、ちょうどイスラマバードに電話で情報を伝えている時だった。最初の爆弾は空港付近に投下された。私はその夜一睡もしなかったが、外には出られなかった。

 翌朝、車で空港へ向かった。空港からそう遠くない場所に、黒ずくめのタリバン兵数十人がいた。そのうちの一人が私に近づいてきて言った。「よく聞け。きょうは大目に見てやる、お前を殺しはしない。だが今すぐここからうせろ」

 私はきびすを返して来た道を戻り、事務所に車を止めた。街には誰もいなかった。今度は普通の住民がするように自転車に乗って現場に戻った。カメラを隠すために手元をスカーフで覆った。その日撮れた写真は6枚、たった6枚だった。うち2枚を提出した。

男性はあごひげをたくわえることが義務付けられていたタリバン政権時代のAFP特派員、シャー・マライ。(c)Shah Marai

■物陰から姿を現した人々

 そしてある朝、タリバンはいなくなった。跡形もなく消え去った。皆さんもご覧になったはずだ。通りは人であふれた。まるでずっと陰に隠れていた人々が、再び生命の光の中に姿を現したかのようだった。

タリバン政権崩壊前、近縁の男性の同伴なしに女性の外出が禁止されていた時期にカブールを歩くアフガニスタン人女性(2001年11月14日撮影)。(c)AFP/Alexander Nemenov

 同僚も大挙して到着し始めた。AFPはロシアのモスクワ(Moscow)支局から記者1人とカメラマン1人を派遣、その後気が付けば十数人体制になっていた。アフガニスタンは「ジャーナリスタン」になった。支局が空になることはなかった。

 私は皆を手伝った。宿泊先や車、情報の仲介人を探したり、どこかへ行くのに最善の道を教えたりした。私の親友はカブール初となるゲストハウスを開業した。共同経営者にならないかという誘いに応じておくべきだった、彼にはその後大金が舞い込んだのだから!

タリバンを破り勝ち誇ってカブールに入る数日前の反タリバン勢力「北部同盟」の戦闘員(2001年11月12日撮影)。(c)AFP/Alexander Nemenov

 タリバン政権下で長年孤立していたため、これほど多くの外国人を目にするのが信じられなかった。街ではあちこちからやって来た人々の前を、子どもたちの一団が走り回っていた。1ドル札を握り締めた若い男性が、「初めて1ドル札を手にしたぞ!」と何度も叫んでいた姿も忘れられない。

■希望の一瞬

 大きな期待に満ちた時だった。黄金の年月だ。街から戦闘が消えた。通りは英国やフランス、ドイツ、カナダ、イタリア、トルコの部隊であふれていた。兵士らは歩いて市内をパトロールし、あいさつしながら気楽な様子で笑顔を見せていた。私は彼らの写真をいくらでも撮ることができた。南でも東でも西でも、どこへでも自由に行けた。あらゆる場所が安全だった。

街からのタリバンの放逐を祝うカブール住民たち(2001年11月13日撮影)。(c)AFP/Alexander Nemenov

 しかし2004年、タリバンが戻ってきた。最初は南東部のガズニ(Ghazni)州だった。2005~06年には、ウイルスのように勢力を拡大し始めた。その後カブールでも攻撃を開始、外国人がよく利用する場所が狙われた。パーティーは終わった。

カブールのモスクで起きた2件の自爆攻撃の犠牲者を悼む人たち(2016年7月撮影)。(c)AFP/Shah Marai

 今ではまたタリバンが至る所にいる。私たちは大抵の場合、カブールに足止めされている。爆弾が仕掛けられた乗用車やトラックによる攻撃から身を守るため、「Tウォール」と呼ばれるコンクリートの壁があちこちに設置されている。カメラマンに優しく接してくれる人はもういない。攻撃的な態度を示す人が多い。皆、誰も信じない。外国の通信社に勤務している者などなおさらだ。「お前はスパイか?」と尋ねられる。

■希望を失った街

 米軍による進攻から15年。アフガニスタン人には金も仕事も残されておらず、表に居るのはタリバンだけだ。2014年に外国部隊の大半が撤退したのに伴い、多くの外国人が去り、何もかも忘れ去られた。何十億ドルもの金がこの国につぎ込まれたことも。

カブールにあるカルテ・サヒの廟(びょう)正門への攻撃で父を亡くして泣くアフガニスタン人男性(2016年10月撮影)。(c)AFP/Shah Marai

 米軍の到着直後のことが輝かしく思い出されてならない。もちろん、2001年以降この街は大きく変わった。新しい建物がつくられ、小道の代わりに大通りができた。戦争の痕跡をとどめるのはダルラマン宮殿(Darulaman Palace)だけで、街にがれきは残っていない。店は品物であふれ、ほぼ何でも見つかる。

 しかしここに希望はない。情勢不安により、生活はタリバン時代よりも厳しくなっているように感じられる。あえてわが子を散歩に連れ出すこともない。私には5人の子どもがいるが、5人とも日がな家の中に閉じこもっている。

 毎朝支局へ向かい、毎晩帰宅する際に考えるのは、猫が仕掛けられた爆弾の犠牲になっていないか、人混みから自爆犯が飛び出して来はしないかということばかりだ。リスクを冒すことはできない。だから私たちは外出しない。

 友人であり同僚だったサルダル(Sardar)のことを思い出さずにはいられない。彼は妻、娘、息子と一緒にあるホテルへ出掛けた際、襲撃に巻き込まれて死亡した。幼い息子だけが生き残った。

 今ほど人生に希望が持てないと感じたことはない。出口が見当たらないのだ。不穏な時を過ごしている。(c)AFP/Shah Marai

自爆攻撃を受けた直後のカブール(2015年5月撮影)。(c)AFP/Shah Marai