【7月7日 AFP】私はソマリアの首都モガディシオ(Mogadishu)で起きる爆撃や襲撃を長年取材してきた。だが今回の攻撃は全く違っていた。人の死や破壊行為を何年も撮り続けていると、攻撃を見ても何も感じなくなるのではないかと思う人もいるだろう。でもそれは違う。現場に着いた時、私は目を疑った。

(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 自動車爆弾が爆発したとき、私はサッカーをしていた。さほど離れていない場所だった。爆発音が聞こえ、煙が立ち上るのが見えた。だから私はいつもと同じ行動を執った。カメラを取りに走った。普段は持ち歩いているのだが、サッカーをするときは1ブロック離れた家に置いておく。そうしておかなければ盗まれかねない。私はほんの1ブロック、2分ほどの距離を走ってカメラをつかみ、また現場へと走った。

 到着した時、わが目が信じられなかった。現場はアンバサダーホテル(Ambassador Hotel)前。モガディシオの中でも、私が自分の「庭」と思っている地域だ。毎日のようにここへやって来ては、友人とお茶を飲む。喫茶店の店員まで、顔見知りばかり。その日の朝お茶を飲んだのもここだった。

(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 だからこそ、ただただ信じられなかった。全く違う場所、全然知らない場所のようだった。映画のワンシーンみたいに見えた。私が受けたのはそういう印象だった。ここは私の場所、出掛けるといったらここなのに。最初目にした2遺体は、その日の朝見掛けた2人だった。1人は年配の男性だった。道路に横たわっていた。私は周りを見渡しながら、「ここは自分が今朝座っていた場所なんかじゃない」とつぶやいた。自分まで攻撃を受けたような感覚だった。私も被害者の一人であるような気がした。

 現場に入ってすぐ耳にしたのは、皆の叫び声だった。誰もが避難場所を求めて走り、叫んでいた。他人を助けている人はおらず、パニック状態だった。人々は混乱し、銃弾から身を守ろうと必死だった。

 ここが自分の庭だと思っていた場所であるはずがないという気がしていた。もはや未知の場所だった。友人らのことを思った。この攻撃で犠牲になった知り合いのことを思った。自分の身の安全のことも考えた。それから仕事に取り掛からなくてはと思った。そうだ、仕事を始めなければ。

 周囲を見渡すと、近くに白い車があるのが目に入った。あそこに身を隠そう。このような攻撃が起こった後では、無防備に身をさらしておくべきではない。格好のかもになってしまう。

 私は車の背後に回り、シャッターを切り始めた。するとうめき声が聞こえてきた。「ううっ…そこに誰かいるのか? 助けてくれ、助けて」。男性が車の下にいた。両脚が車の下敷きになり、身動きが取れなくなっていた。

 こういう状況に置かれた時、写真を撮ったら、次はやはり人として助けなければならない。だが私一人の力で車を持ち上げるのは無理だ。そこへ2人が駆けつけて来てくれた。力を合わせて動かそうとしたが駄目だった。他の人が来てくれるのを待った。待っている間、私はさらに写真を撮った。

 ようやく他の人が来てくれた。兵士2人だ。私たちはついに車を動かし、男性を救出した。だが彼の両脚は完全につぶれていた。悲惨な光景だった。「これでまた歩けるのか?!」と彼は叫んだ。「どうやって家族を養っていけばいいんだ? こんな障害を負ってしまって」──ただただ痛ましかった。

 私はこのようなむごい襲撃現場を数多く取材してきたし、数え切れないほど多くの人が死ぬのも目にしてきた。ここでは死が日常の一部になっている。毎朝起きて、きょうのうちに自分か、もしくは友人か家族の誰かが死ぬかもしれないと覚悟する。それでも、こういう襲撃現場に出くわせば動揺する。

 夜眠れないこともある。見てきた襲撃が頭をよぎるからだ。1回の襲撃を、数度追体験することになる。1回目は現場で。2回目は撮った写真を編集して提出する時。さらにフラッシュバックに襲われ、惨状が頭の中によみがえる。夢の中で同じ場面に遭遇して、びくっと目を覚ますことも多い。

 なぜこの仕事を続けているのか? ジャーナリズムは、もういつからか思い出せないほど昔からずっと、私が情熱を傾けてきた職業だからだ。私は自分に言い聞かせる、少なくとも「このこと」を世界に知らせることに貢献しているじゃないかと。「このこと」とはつまり、来る年も来る年も、人々が殺され、重傷を負わされているという事実だ。皆罪のない人々で、誰も彼らのことを知る人はいない。だが少なくとも私は世界に知らせている──彼らがここにいて、こんなことが彼らの身に起こったのだと。自分に言い聞かせているのはまさにそういうことだ。少なくとも何か良いことをしているじゃないかって。

(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 私はよく祈る。神に、どうか私を救いたまえと懇願する。「神よ、私です、あなたのしもべです」と呼び掛ける。「私が死んだら、家族は路頭に迷います、誰もいなくなるんです。どうか私を生かしておいてください」

 幸いにも、これまで重傷を負ったことはない。爆弾の破片でいくつか傷ができた程度で、これも神のご加護だ。写真を撮影していると、自分は路上に立ち、狙撃手が建物の上にいるということもままある。向こうは私が見えるが、私から向こうは見えない。丸見えで、身を隠す場所さえない場合もある。時にはやむにやまれぬ状況に陥り、自分にこう言い聞かせることもある。「お前はもう死んでいるんだ、どうせ死んでいる。だったら行った方がいいじゃないか」そうやって私は飛び込んで行く。

(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 私は自分が撮る写真を家族には見せない。特に両親には絶対に見せないし、兄弟にだって見せない。もし見たら、心配し始めるだろう。もし家族に写真を見せたら、母が外出を許してくれるかどうか…今回の襲撃があった日の夜、母は私に10回は電話をかけてきたと思う。現場の近くにはいないから心配しないでと言う私に、母は「お願いだから、近くに行かないで、お願いよ、近くに行かないで」と繰り返した。毎度こういう調子だ。

 私は29歳。結婚して4人の子どもがいる。一番上はもうすぐ7歳、末っ子は生後1か月半だ。ここには子どもがたくさんいる。子どもしかいないと言ってもいい。学校を出てジャーナリズムというものを理解している妻は、私の仕事について両親よりも分かってくれている。それでもこういう場所に行って写真を撮らないよう、強く念押しされる。「あなたが死んだらどうなるの?」と彼女は言う。「私たちは? 誰が私たちを助けてくれるっていうの」。そう言われて私も心配になる。子どもがいる、だから生き続けなければならない、私が一家を支えているんだから、と。誰だって死にたくはない…

 この国を出るチャンスは何度もあった。同僚の多くは欧米におり、皆逃げた方がいいと言う。でも私は、この国を離れたいと思ったことは一度もない。こう言ったら気が触れていると思われるだろうか? ここが私の母国であり、私は愛してやまないことをしている。欧米に行ったら何をするだろう? ここのジャーナリズムは特別なのだ。

 私は自分の国が好きで、仕事も好きだ。ここでうまくやっているし、暮らしにも満足している。難民にはなりたくない。難民として生きるのは楽なことではない。

 だが子どもたちはどうか? 私は子どもたちには、国を出てほしいと思うことがある。この国は混乱から抜け出そうとしているようには見えない。彼らの教育のことを考える。ここでまともな教育が受けられるだろうか? 答えはノーだ。その点では、機会が許せば家族を出国させる手助けをしたいと思う。

(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 一方で、私とここに残ってほしいという気持ちもある。私は子どもたちを愛している。子どもたちに会いたい、一緒にいたい、ここで一人ぼっちにはなりたくない。スカイプ(Skype、インターネット電話サービス)でしか会えないなんて嫌だ。それでもやはりチャンスがあるなら、私は彼らを国から出すだろう。彼らの教育のためなら犠牲もやむを得ない。

 襲撃が発生した際、私がすることはいくつかある。カメラをつかむ。同僚に電話をかけてどこにいるか尋ねる。カメラを持って現場に一番乗りするのは避けたい。治安部隊はとにかく容赦がない。現場入りしてカメラを持った人物がいるのに気が付けば、事前に襲撃の情報を得ていたと勘違いされ、殺される可能性もある。また、先に現場に着いたのが治安部隊の方だったら、その場にいようがいまいが関係ない。来るなり発砲を開始するため、たちまち命を落としかねない。

 だからカメラのことを思い、身の安全を考慮し、近くにいる他のジャーナリストに連絡を取る。これが鉄則だ。現場に着いたら、必ず妻に電話して居場所を知らせておく。母親にはこちらからかける必要はない。どのみち数分後には、向こうからかかってくるのだから。

 襲撃の最中は、周囲の人々にも注意しなければならない。皆正気を失うからだ。写真ばかり撮っていると、お前はそれでも人間かとののしり始め、非常に攻撃的になってくる。誰かが私の助けを必要としていれば、手を差し伸べる。人々が叫んで助けを求めている時に、撮影を続けるわけにはいかない。男性が車の下敷きになっていた時もそうだった。私の力がそこまで必要とされていない時、あるいは他に救助者がいる場合は、撮影を続行する。

攻撃による犠牲者を運ぶ人々。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 亡くなった同僚は多い。昨年11月、友人と同じ襲撃の現場にいた。それぞれ違う車を盾にしていたところ、彼の方は吹き飛ばされてしまった。本当にたくさんの人が犠牲になった。他の人たちは去った。それでも何人かは生きて残っている。

 次は誰の番だという話にもなる。あなたかもしれない。いつだって、どこだって分からない。爆発かもしれないし、銃撃戦に巻き込まれるかもしれない、事故かもしれない。何でも起こり得る。私たちは覚悟ができている。モガディシオの大多数の住民はそうだ。たとえ自分の身には起こらなくても、兄弟や近隣住民、姉妹が被害に遭う可能性もある。

 冗談を言い合うこともある。襲撃があった後、お茶を飲みながら、あるいはフェイスブック(Facebook、交流サイト)上で、きょうそっちはどんな具合だったんだい、と尋ね合う。そう言いながら、いつかは自分の番が回ってくるのだと意識している。そう、自分が死ぬ番が。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

このコラムはカメラマンのモハマド・アブディワハブ(Mohamed Abdiwahab)がパリ(Paris)本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同執筆し、2016年6月6日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。