■広島と長崎で

 賀谷美佐子さん(86)は、広島と長崎の両方で被爆した極めてまれな被爆者の一人だ。広島の原爆で母と妹を亡くし、2人の遺骨を長崎の先祖の墓に持って行ったところを第2の原爆に巻き込まれた。

「お父さんが『たぶんここに母さんと多美恵がいるよ』って言うから、そこのがれきをのけたんですよ。そしたら母親の骨があったんですよ。箱を用意していたんですが、そこへ骨をひらって(拾って)入れよった。そしたら『お父さん、この骨はひらっても、手でつまもうと思ったら、砕けてつかめんのよ』って言ったら、『それは多美恵のだ』って言って。母親がね、妹を抱っこして逃げようと思ったんでしょうね。そしたらそこに家が崩れて、下敷きになって焼け死んだんだと思うんですがね。覚えてますよ、忘れられない。思い出したら涙が出ます」

「肺の病気ばかりですね、肺炎とかですね。仏壇の前に座っちゃ、『母さん、はよ迎えに来てや』って言うんだけど、なかなか迎えに来てくれません──当時の思い出は灰色。本当に…。青空が見えなかった。アメリカのこと嫌いじゃない。当時は憎んでいましたけど。(オバマ大統領に)会ってみたい。戦争は二度としないでねって言いたいです」

■「きのこ雲の中にいた」

 森重昭さん(79)は、広島に囚われていた米国人捕虜らの運命を調査した研究で知られている。現在は長崎にいたオーストラリア人捕虜の運命を調査中だ。「橋の上を僕は歩いていて、学校代わりだった神社の上にまで行きつつあったところで被爆した。川へたたき落とされた。僕はマッシュルームクラウド(きのこ雲)の中にいた」

「かなり時間が経って、僕は水の中にいた。そして川からはい上がって道路へ出た。そうしたら声が聞こえた。見たら女性がふらふらしながら、僕の方に近づいてくる。全身血まみれ。そして内臓が飛び出ていた。その内臓を手に抱えて『病院はどこですか』って聞いたんですよ。その瞬間、大けがをした女性のことをほったらかしにして、泣きながら逃げた」

「バタバタと皆、倒れていた。まだ生きていた。でもその人たちの顔や頭を踏みつけて逃げた。家が倒壊して、その家からいろんな悲鳴が聞こえてきました。でも僕は子どもだし、助ける力もないし。とにかく逃げようとした」