【5月16日 AFP】車のスピードが上がるにつれ、私の鼓動もどんどん速くなった。私たちは砂漠を走り抜け、シリア中部にある古代オアシス都市パルミラ(Palmyra)へ向かっていた。イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に、10か月近くの間制圧されていた場所だ。

 その朝、シリア政府軍がパルミラと2000年前の古代遺跡を奪還したと、複数の情報筋が確認した。そのニュースは世界中に広まり、AFPは現地から報道する初の外国メディアになろうとしていた。私は誇りと喜びの気持ちでいっぱいだった。3月27日の朝、シリアの多くの人々が聞いて喜ぶはずの朗報を届けることができるのだから。レバノンの首都ベイルート(Beirut)支局をはじめ、ドイツやノルウェー、レバノン、トルコへ逃れたシリア出身の友人らから電話が鳴りやまなかった。皆知りたがっていたのは、「遺跡はどうなっているのか?」ということだった。

 私はその答えを知るのが怖かった。

 同市に近づくと、戦闘の激しさを物語る黒煙以外、大したものは見えなかった。連なる丘が視界を遮っていた。

パルミラで、空爆によりひどく破壊された道路(2016年3月29日撮影)。(c)AFP

 喜び、悲しみ、不安、警戒心──私は入り交じる感情に圧倒されていた。パルミラに入り、そこで何が起きたかを世界に伝える喜び。ISが遺跡を破壊したという、動揺をもたらすニュースを伝えることになるかもしれないという悲しみ。残されたものを目にする不安。戦闘の間、パルミラとのあらゆる通信が遮断されていたため、ISがその言葉通りに遺跡を一つ残らず破壊してしまったのかどうか、把握できていなかった。

■路傍に仕掛けられた爆弾

 そして警戒心。私にとって、ISの戦闘員らが闊歩(かっぽ)していた街を取材するのはこれが初めてだったため警戒していた。ISの戦術や、戦闘での殺し方、路傍に危険な爆弾を仕掛けてあることも聞いていた。

 しかし仕事の準備を整えているうちに、こういった感情は徐々に消えていった。私はカメラのバッテリーやレコーダー、携帯電話をチェックした。AFPの帽子をかぶり、メモ帳とペンを手にして、自分が目にしたものを記録し始めた。この記事をどう書いていこう? 自分が見ているものを世界に伝えるため、どう書き始めよう?

パルミラに転がる古代の像(2016年3月31日撮影)。(c)AFP/Joseph Eid-Beto Barata

 私たちは遺跡まで500メートルのところにやって来た。一目で私の鼓動はさらに速まった。見えているものは本物か? 立っている柱はあるか? 劇場や要塞はどうだ? 破壊された部分も散見するが、私ががれきになり果てているだろうと予想していたものの大半はまだそこにあった。

「遺跡の中に入っても良いか?」とボディーガードに聞くと、絶対に駄目だという答えだった。「旧市街全域に地雷が仕掛けられていて、とても危険だ。私たちはダーイシュ(Daesh、ISのアラビア語名の略称)がいた地域にいるんだ…ものすごく用心しないと」

■昔のホラー映画に出てきそうなゴーストタウン

 代わりに、パルミラの居住区域を回ることにした。ゴーストタウンと化していた。昔のホラー映画を見ているようだった。煙が町のあちこちから新たに立ち上っていた。どの道も残らず同じだった。車は往来に放置され、ドアが開いたままのアパートには人けがなかった。町は完全に破壊され、聞こえたのは風の音と、遠くで数分おきに静寂を破る道路脇の地雷の爆発音だけだった。砂漠を吹く風が、黄色い砂煙を巻き起こしていた。

 アパートの建物の周囲を忍び足で歩きながら、迫撃砲や衝突でできた大きな穴の中をのぞいていった。誰もいなかったが、生活の気配はあった。街角の小さな店には商品が、アパートには家具が残っていた。皆ふらりとその場を離れたかのようだった。ISが残していったものは、例の黒い旗と事務的な書類以外、何もなかった。

パルミラの凱旋門の写真(2014年3月撮影)とその跡地。凱旋門は2015年9月に「イスラム国」に破壊された(2016年3月31日撮影)。(c)AFP/JOSEPH EID

 地雷を踏まないよう足元に注意しながら、また行く先を教えてくれていたボディーガードの指示に耳を傾けながら、慎重に街中を歩いた。自分がどこにいるのか、通りの名前は何なのかを誰かに、誰でもいいから聞こうと思い、「誰かいませんか?」と叫んでみたが返事はなかった。やはり物悲しい風の音と地雷の爆発音しか聞こえなかった。

■サッカーボールと地雷

 居住区域を一回りした私たちは、街の中央広場に集まった。支局に写真を送ったり、無事であることを伝えようと電話をかけたりしようとしたが、つながらなかった。旧市街に続く道に沿って埋められた地雷を軍の担当班が処理するのを待つ間、一部の兵士らがサッカーボールで遊び始めた。ドラムをたたき出す兵士もいれば、マテ茶を飲む兵士もいた。その歴史的な瞬間を記録しておこうと、写真を撮る人もいた。

 ついに私たちは、地雷を踏まないよう軍の指示通りに歩くという条件で、遺跡の中に入る許可を得た。

損傷を受けたパルミラの博物館(2016年3月31日撮影)。(c)AFP/JOSEPH EID

 私はゆっくり爪先で地面を確かめながら歩いていった。急がないように心掛けた。高くそびえる遺跡を目に焼き付け、2000年の歴史が息づく石の匂いを嗅ぎ、何千もの戦闘や災害が起こり、戦ってきた世界の軍が消えていった場所の感触を確かめたかった。何もかもなくなった、だがこの土地は残る。歴史は残る。

 私は足を止めてはメモを取り、写真を撮り、いくつか動画も撮影した。あまりに頻繁に立ち止まったため、退屈した同僚たちは私が作業しやすいよう一人にしてくれた。

 遺跡の中を歩くのは、感情のジェットコースターに乗っているようなものだった。地雷に対する恐怖が薄れ、安心し始めた途端、遺跡の反対側で爆発音がした。再び緊張し、また慎重に歩き出した。

 あの有名な古代ローマの劇場がしっかり立っているのが見えた時は、私の顔もほころんだ。だが完全に破壊された凱旋(がいせん)門(Arch of Triumph)を目にすると、その笑顔は消えた。ベル神殿(Temple of Bel)があった方を向くと、太陽神の柱の上に、月神の柱の下に、崩れた石が積み重なっていた。石の間から、鮮やかな黄色い花が咲いていた。

 これはまだ始まりにすぎなかった。墓塔は一部破壊され、がれきと化した柱もあった。だが多くの柱は、そこで起こってきたことの証しとしてそびえ続けていた。

 最後は喜びが悲しみを上回った。遺跡は一部損傷を受けたものの、おおむね無事であることが確認できた。私はAFPの帽子をかぶったまま、笑顔でセルフィー(自撮り写真)を1枚撮った。携帯電話の電波が入ってきた後、すぐさまその写真をツイッター(Twitter)に投稿した。「AFPがパルミラに入った」というキャプションを添えた。

 私は子どもの頃にパルミラを訪れたのだと、よく友人に自慢していた。ただ全体像以外、細かいことはほとんど何も覚えていなかった。

 きょうパルミラを再訪し、さらに誇りに思う。自分のことも誇らしい。外国メディアの特派員としてパルミラ現地に入ったのは私だけだったのだから。私が撮った写真は世界中に配信された。

 パルミラが文明史上重要なのは当然だが、まだ駆け出しの私のキャリアのうちでも重要なものとなった。AFPで働き始めた最初の年を、パルミラのような大きなニュースで締めくくることができてとてもうれしい。私はパルミラから記事を書き、現場報告を送り続けた。決して飽きなかった。この取材ができたことは大きな自信につながり、また生涯記憶に残るものになった。

 日暮れを迎え、私のパルミラ訪問は終わった。政府の検問所を過ぎると、たちまち携帯電話が使えるようになった。私は車中から初めて、この荘厳な都市に関する自分の所感を発信し始めた。ダマスカス(Damascus)やベイルートにいる同僚たちからメッセージがどんどん届いた。皆より多くを知りたがり、私は見てきた全てを伝えた。

 中部ホムス(Homs)からダマスカスに帰ってくると、同僚のマヤ(Maya)がベイルート支局から電話をかけてきてこう言った。「私たちは歴史を書いている」(c)AFP/Maher Al-mounes

このコラムは、ダマスカスに拠点を置くAFPのマヘル・モウネス(Maher Al-mounes)記者がアラビア語で執筆し、ベイルートのマヤ・ジェベイリー(Maya Gebeily)記者が英訳し、4月1日に配信された記事を日本語に翻訳したものです。

ベル神殿の写真(2014年3月14日撮影)と「イスラム国」に破壊された神殿の残がい。(c)AFP/JOSEPH EID