■死のジェスチャー

 ハンガリー東部の都市デブレツェン(Debrecen)から列車に乗せられたとき、ファヒディさんは18歳の女子生徒だった。移送先は、1944年の5月~7月の間にハンガリーのユダヤ人44万人近くが送られた死の収容所の一つであるアウシュビッツだった。

 ファヒディさんは、親族49人をホロコーストで失った。両親と11歳だった妹もこの中には含まれていた。母親と妹を最後に見たのは、ビルケナウに到着してすぐに行われた「選別」の列だったという。

 ファヒディさんは、「(収容所の医師)ヨーゼフ・メンゲレ(Josef Mengele)の指のかすかな動きが、生死を決めた。右ならば労働へ、左ならばガス室へ。私は右だった」と述べ、人々の運命を左右したのがたった一つのジェスチャーだったことを明らかにした。

 収容所が解放されてから、自らのトラウマについて語る用意ができるまでに約60年を要したというファヒディさん。2003年に収容所を再訪したことが回顧録を書くきっかけになった。「それが私の使命だと悟ったのです。アウシュビッツについて、できるだけ多くの人に伝えること。それが最低限、私ができることだと」

The Soul of Things(物事の魂)」と題された回顧録は、04年にドイツ語で出版され、ファヒディさん自身によってハンガリー語に翻訳された。今後、英語版とフィンランド語版の出版も計画されている。

 そして、ファヒディさんは、新たな表現の手段としてダンスを選んだ。「身振りや体の動きは、言葉よりも自由で、一人の人間についてより多くを語ることができる」と彼女は話す。

 パートナーを務める36歳のダンサー、エメシェ・ツホルカ(Emese Cuhorka)さんによると、ホロコーストについて読んだり聞いたりすることをためらっていたファヒディさんの孫たちも、舞台には「驚嘆していた」という。