【1月6日 AFP】スペイン1部リーグ、レアル・マドリード(Real Madrid)の新指揮官に就任したジネディーヌ・ジダン(Zinedine Zidane)監督だが、初経験となるトップチームの指揮で、現役時代に匹敵する成功を収めることは容易ではない。

 過去にも数多くの大選手が引退後に指導者の道に進んでいるが、その成否はさまざまだ。AFPは、偉大な選手が指導者に転向した成功例と失敗例を合わせて5つ紹介する。

■ヨハン・クライフ(Johan Cruyff

 1970年代にオランダが旋風を巻き起こした「トータルフットボール」の象徴でもあるクライフは、選手と監督の双方で成功を収めた人物の代表格といえる。

 現役時代はオランダの主将を務め、1974年のW杯西ドイツ大会では代表チームをW杯決勝に導くと、クラブではアヤックス(Ajax)でヨーロピアンカップ(European Cup、現在のチャンピオンズリーグ)制覇3回、FCバルセロナ(FC Barcelona)でリーグ優勝を経験。バロンドール(Ballon d'Or)にも3度選出された。

 監督としては、アヤックスで目立った成績を残せなかったものの、バルセロナでは現在の成功につながるクラブの礎を築き、クライフの「ドリームチーム」はリーグ4連覇、さらにはヨーロピアンカップのタイトルを初めてクラブにもたらした。

 アヤックスとバルセロナには、今もクライフの影響が色濃く残っており、例えばジョゼップ・グアルディオラ(Josep Guardiola)はクライフの薫陶を受けた一人だ。グアルディオラ自身も、クライフのチームで中心選手として活躍したあと、現在は偉大な監督への道を着々と歩んでいる。

■フランツ・ベッケンバウアー(Franz Beckenbauer

 選手と監督の双方でW杯を制した人物は、ブラジルのマリオ・ザガロ(Mario Zagallo)、そしてドイツのベッケンバウアーの2人しか存在しない。主将として大会に臨んだ1974年のW杯でベッケンバウアーは、クライフを擁するオランダを破って優勝。そして1990年のイタリア大会では監督としてW杯制覇を果たした。

 クラブレベルでは、現役だった1970年代にバイエルン・ミュンヘン(Bayern Munich)でヨーロピアンカップ3連覇の偉業を成し遂げたものの、監督としてはそれに見合う結果は残せなかった。

 それでも、1994年にはブンデスリーガ1部優勝を果たし、1996年にはジダン擁するボルドー(FC Girondins de Bordeaux)を退けてUEFAカップ(UEFA Cup、現在のヨーロッパリーグ)を制している。

 引退後のバイエルンでは、監督としてよりも、クラブ首脳としての実績が大きい。

■ディエゴ・マラドーナ(Diego Maradona

 この時代の選手としては最高、また多くの人が、歴代でも最高の才能の持ち主と評価されているマラドーナは、選手としてはアルゼンチンを1986年のW杯メキシコ大会優勝に導き、クラブレベルでもボカ・ジュニアーズ(Boca Juniors)、バルセロナ、ナポリ(SSC Napoli)などで輝かしいキャリアを築いた。

 しかし、アルゼンチン代表の監督としては現役時代に釣り合う結果を残せたとは言いがたい。W杯南アフリカ大会の南米予選ではボリビアに1-6の大敗を喫し、本大会でもドイツに0-4で粉砕されて準々決勝敗退に終わった。その上、本大会前にはメディアに向かって暴言を吐き、国際サッカー連盟(FIFA)から2か月の資格停止処分を科された。

 アルゼンチン代表の指揮官を解任されたあとは、アラブ首長国連邦(UAE)のアル・ワスルFC(Al-Wasl FC)の監督に就任したものの、長続きはしなかった。

■ミシェル・プラティニ(Michel Platini

 国際サッカー連盟(FIFA)の汚職に絡み、プラティニの名声は地に落ちた感がある。現役時代は最高の選手の一人だったが、指導者としては記憶に残るような成果を上げられなかった。

 現役時代に欧州最高の選手だったプラティニは、1984年にフランス代表を欧州選手権(UEFA Euro)優勝に導き、クラブでもユベントス(Juventus)でヨーロピアンカップを制し、バロンドールも3度受賞した。

 しかし、監督としては1990年のW杯イタリア大会で本大会出場を逃すと、1992年の欧州選手権でも目立った結果を残せず、監督業から退いた。

 そして現在は、FIFAのジョセフ・ゼップ・ブラッター(Joseph Sepp Blatter)会長から不正に金銭を受け取ったとして、8年間のサッカー関連活動禁止処分を科されている。

■マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten

 けがのため28歳の若さで現役を退かなければならなかったものの、ファン・バステンはクライフやプラティニと同じようにバロンドールを3度受賞し、選手として輝かしいキャリアを築いた。

 アヤックスで頭角を現したファン・バステンは、イタリア・セリエAのACミラン(AC Milan)に移籍し、1980年代後半から90年代初頭にかけて国内と欧州を席巻したチームの中核を担った。

 もちろん、ファン・バステンといえば1988年の欧州選手権決勝でみせた鮮烈なボレーシュートの印象が強い。このシュートが決勝点となり、オランダは旧ソビエト連邦を破って大会制覇を果たした。

 引退後はオランダ代表の監督として指導者の道に入ったが、2006年のW杯ドイツ大会はベスト16で敗退。2008年の欧州選手権は準々決勝敗退に終わった。

 その後、アヤックス、ヘーレンフェーン(SC Heerenveen)、AZアルクマール(AZ Alkmaar)といったクラブチームで指揮を執ったものの結果を残すことができず、現在はストレスを理由に一線を退いている。(c)AFP/Keyvan NARAGHI