【8月14日 AFP】東京に住む元中国残留孤児の中島幼八(Yohachi Nakajima)さん(73)は、中国人の養母や、かつて故郷と呼んだ農村に思いをはせ、涙をこらえる──。

 第2次世界大戦(World War II)が終結した1945年8月15日、中島さんは当時3歳だった。終戦で、満州(現在の中国東北部)には約150万人の日本人が取り残されたといわれている。

 日本がアジアにおける勢力拡大を図るなか、1930年代初頭から農業従事者や労働者、若い予備兵が国策の一環として満州へと渡った。中島さんの父親も満州に移住した日本人の一人。しかし、開拓団としての生活は悲惨なもので、敗戦直前に軍隊に召集され、その後の消息は分かっていないという。

 病気と貧困に苦しめられた中島さんの実母は、息子の面倒をみてくれる中国人の家族を探した。中島さんはAFPに「日本は侵略者だ。はっきり言えば。侵略者の子どもを育てるということはよっぽどの何か、人間愛というものがそこにある」と話した。

 このとき、中島さんの面倒をみると申し出たのは孫振琴(Sun Zhenqin)さんという一人の女性。痩せ細った中島さんを 「来福(Lai Fu)」と名付けたのだという。当時、中島さんは栄養不良の状態にあり、その腹部だけは大きく膨れ上がっていた。

 中島さんは「食べ物をかみ砕いてくれたり、おなかをもんだりしてくれた。お産婆さんだった。お産婆さんは命を取り上げるわけだから命の大切さというのはわかっている。ちょっと衝動的な感じもする」と孫さんについて語ってくれた。

 昭和天皇が日本の降伏を国民に伝えた後、満州に残された人々の状況は想像を絶するほど過酷なものとなった。冬の厳しい環境下で数多くの人が餓死したり病死したりした。その中には、多くの子どもが含まれていたとされ、現地で養父母に引き取られたのはほんの一握りだった。集団自決に巻き込まれた子どももいたとされているが、生き延びた人の数などについての確固たるデータは存在していない。