■「電話も手紙もなかった」

 中島さんのように中国で新しい家族に迎えられた孤児がどのくらいいるのか、正確には分かっていない。日本政府によると、2015年7月現在、残留孤児の数は2800人超とされている。

 中島さんは16歳で日本に帰国。その後、中国の養母の孫さんと話ができたのは、1966年に両国の文化交流のための通訳者として中国に派遣された時の1度だけ。当時、中国は文化大革命の最中にあり、排外的な風潮が強まっていた。

 中島さんと孫さんとの会話は、電話を通じたごく短いものだった。電話が切れる直前に中島さんは、「来福!来福!」と、中島さんの名前を呼び続ける孫さんの声を聞いたという。

 その後、2人が言葉を交わす機会はなかった。孫さんは1975年に死去した。

 日本政府が残留邦人の帰還に向けた取り組みに着手したのは、1972年の日中国交正常化から数年が経過した頃だった。消息が分からなくなっていたのは孤児だけではない。入植者との結婚目的で「大陸の花嫁」として満州へ送られた若い女性たちの多くもその行方が分からなくなっていた。

 西野文子(Fumiko Nishino)さん(88)もその一人。表向きは、電話交換手として働くためとして、2人の姉妹と共に満州国へと渡った。

 満州で暮らしていた3人姉妹にもついに帰国の機会が訪れるが、当時、中国人の軍人との間に2人の女の赤ちゃんをもうけていた西野さんは帰国を拒否。その後については、「日本の家族と音信不通になった。長い間、電話も手紙もなかった」と話す。

 西野さんは、「(1970年代半ばに)ようやく帰国すると、兄弟や親たちはみんな私が死んだと思って墓まで作っていた。19歳で死んだと書いてあった。だから私は笑ったり泣いたりして、(墓石を)押して埋めてしまった」と当時を語った。

 厚生労働省によると、永住帰国者のうち、西野さんのような境遇の女性は約4150人いるとされ、その他大勢の残留婦人も、しばしば一時帰国をして短期的に滞在するとしている。

 日本政府は1959年、「戦時死亡宣告」の制度を制定。中国を中心とした海外の在留邦人、約2万人について、死亡したか、帰国する意向がない者とみなし、戸籍から抹消する措置を取った。

 中島さんは日本で実母と再会し、実母が98歳でなくなるまで親子としての関係を築くことができた。だが、養母の孫さんや同じ地域に住んでいた人たちの優しさ、農地での作業、そして帰宅すると用意されていた熱々のジャガイモなど、その胸には数々の思い出が永遠に刻まれている。

「果たして日本人がもし逆の立場だったら、そういうふうにしてあげられるかどうかわからない」と中島さんは話した。(c)AFP/ Harumi OZAWA