■実際に戦ってみて

「それがですね、戦争という実際に今度は戦ってみて、あまりにも自分の戦争に対する、罪深い行為が自分でも分かりましたから、これはえらいことだなあ、と」

「自分としてはそうした犠牲的精神で日本の国のためにそれだけ戦った誇りがあるのに、戦争という非常に罪悪の場面に奉公しなければならない立場になったら、逆にですね、相手の知らない肉親を、何にも知らない、国は違っても、恨みもなんにも知らない、同じ人間の命を見るたびに殺めていく、それをやらなければ自分がやられるんだという、やらなければ自分が殺されるという、そういう極限の世界に入って初めて、自分の罪深い人生というものに、非常に、これを反省をして、それを次の世代に生かすことができないか、と、そういうところまで私は考えるように(なりました)」

■真珠湾攻撃への参加

「真珠湾攻撃にはねえ、私は軍艦、航空母艦の蒼龍(そうりゅう)という母艦の戦闘機隊の下士官では一番先輩格の下士官だった」

「そして、中国戦線で、もう昭和12年(1937年)の初めから南京陥落まで私はまあ、戦争じゃないんですが、陸軍の前線を援護して、南京陥落までの准戦争の体験をしておりますから、当然私は、真珠湾攻撃に真っ先に飛んでいく命令を受けると思ったら、それが逆なんで、君はこちらの艦隊の上空を護衛する任務につきなさい、と言われたから、それはどういう意味ですか、っつったら、われわれは奇襲作戦といってなるべくこちらの攻撃を隠ぺいして向こうに分からないように接近していって、そして交渉がうまくいかなかったら宣戦布告をして攻撃を加えるんだけれども、向こうからも攻撃をうける可能性があるから、向こうのアメリカのハワイ(Hawaii)軍港から攻撃を受けたら、それこそ日本連合艦隊が一番大事な航空艦隊をやられたら困るからまもりなさい、と」

「そこまでいわれれば、私もやむをえない、守るほうに自分が(回り)、3回も2時間ずつ6時間も任務を果たして、幸いに、まあ、向こうからの攻撃はなかった」