【8月8日 AFP】ベルギー人のピエール・ピッチニン・ダプラタ(Pierre Piccinin da Prata)氏は、自分のことを歴史家であり政治学者だというが、彼の仕事は戦場記者に近い。研究者である彼はシリアを十回以上、訪れている。もう少しで帰れなくなりそうだったこともある。

 2013年、彼はシリア反体制派の自由シリア軍(Free Syrian ArmyFSA)の一派に裏切られ、人質犯のグループに引き渡された。「2か月おきに現地に行っていても、状況を正しく読むことができなかった」という。

 欧米ではFSAは、バッシャール・アサド(Bashar al-Assad)大統領とも、イスラム過激派組織「イスラム国(Islamic StateIS)」とも反対の、穏健な反体制派とみられている。だがFSAの一部のメンバーたちは今、欧米人につく「高値」を目当てに、人質をイスラム過激派に売るようになっている。かつてはISに対抗する希望の光と仰がれていたFSAだが、最近では、目的がばらばらの全く異なる反体制派グループの寄せ集めとみなされつつある。FSAの一部の派と過激派の怪しいつながりは、外国人にとって命取りになることがある。ピッチニン氏のようなジャーナリスト、研究者、支援関係者たちは、FSAに保護してもらえると頼りにしていたが、それどころか過激派に売り飛ばされてしまったのだ。

 ピッチニン氏はシリア訪問8度目となる2013年4月に人質にされた。イタリア紙スタンパ(La Stampa)の記者、ドメニコ・キリコ(Domenico Quirico)氏も一緒に、FSAの兵士たちについてシリア西部の都市クサイル(Qusayr)へ向かっていた途中、車が故障した。車列の中の別の車に移された際、ピッチニン氏たちの保護を担っていた司令官の姿を見失ったが、警戒心は湧かなかった。「何とも思わなかった。FSAに無条件の信頼を置いていた」という。

 目的地に着くと、2人は見慣れない部隊を目にした。ピッチニン氏はFSAの幹部クラスの人物に電話し、何が起きているのか確認した。その幹部は「彼らもFSAだから行動を共にしろ」と言った。

 翌日、ピッチニン氏とキリコ氏は街を出ることを決めた。兵士たちは彼らを見送りながらにやにや笑っていた。街の出口まで来ると、道路が封鎖されていた。「運転手は引き返すのではなく、エンジンを切った。4、5人の男たちがカラシニコフ銃を空に向けて発砲しながら車に押し掛けてきた。『バシャル警察、バシャル警察』と叫びながら」

 2人は引きずられるようにして、軽トラックに乗せられた。そこには、自分たちを保護してくれるはずの運転手の姿があった。武装した男たちがかばんを車から車へ移すのを手伝っていたのだ。「後から思えば『明らかにだまされた』のに、あの時は、シリア政府に拘束されたのだと思った」。しかしすぐに、アブオマル旅団(Abu Omar Brigades)に捕まったのだと分かった。ピッチニン氏いわく「イスラム主義を語る、負け犬と犯罪者の集まり」だ。さらに2人はファルーク旅団(Farouq Brigades)に売られたが、イタリアの情報当局の交渉の結果、151日後に解放された。