【7月21日 AFP】1995年夏。フランス革命記念日(Bastille Day)に仏軍が行う演習を取材するためクロアチアにいた私に、AFPの編集長から電話が入った。ボスニアへ行けるか?ボスニア東部の町スレブレニツァ(Srebrenica)がセルビア人勢力の手中に落ちたところだった。

 もちろん私は「イエス」と答えた。ボスニアまでの旅費はあるか?いいえ。車は?いいえ。記者としては珍しく、私は運転免許さえ持っていない。でも、南スーダンやルーマニア、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza)での取材を通じ、現場へ行けばいつも小さな奇跡が導いてくれることを知っていた。

 最初の奇跡は、クロアチア南部のスプリト(Split)の空港で起きた。出発ラウンジで、自分のようにスレブレニツァへ向かう記者はいないかと探していると、若い女性に出くわした。「もしかしてフランス人?」と、思い切って聞いてみると「そうよ」との答え。「運転はできる?」「できるけど」。彼女は仏紙ルモンド(Le Monde)の記者で、その困難な取材の始終を共にするチームメートになった。それから伊紙コリエレ・デラ・セラ(Corriere della Sera)の記者を引き入れ、3人で一つの取材班ができた。

 私たちは金をまったく持っていなかったが、突然「ナデージュ、ナデージュ」と、誰かが私の名前を叫ぶのが聞こえた。二つ目の奇跡だ。ジャーナリスト仲間のフランス2(France 2)テレビの記者だった。パリ(Paris)へ戻る途中で、親切にも余っていた現金5000ドルをAFPに貸してくれた。

 これで私たちは、イスラム教徒が住むボスニア北部の飛び地スレブレニツァに一番近い町、トゥズラ(Tuzla)へ向かう準備ができた。記者たちはトゥズラへは入れていたが、私の知る限り、スレブレニツァ入りしていたジャーナリストは1人もいなかった。命を危険にさらすリスクがあったからだ。

 道は長く、曲がりくねって危険だった。私たちは国連平和維持軍の助言に従い、銃撃を避けるために他の記者たちと隊をつくって移動した。私たちの車両は何の印もついていない普通のレンタカーだったので、「プレス(報道)」と書かれた大型ジープから離れないように注意した。

 途中、ゼニツァ(Zenica)と呼ばれる町で止まり、物資を積んだ。その町には親類が暮らしており、内戦の前から知っていた。だがカフェに入っていくと、カラシニコフ銃を手にした、暗く不穏な雰囲気の100人ほどの「ムジャヒディーン」(当時はそう呼んでいた)ににらまれ、即座に店を出た。