■ヒトラーの「大衆車作り」から

 ポルシェ氏は1875年、当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部で、マッファースドルフ(Maffersdorf)と呼ばれていたブラティスラビツェのドイツ系が占める地域で生まれた。18歳で故郷を離れてウィーン(Vienna)へ、そして後にドイツに行き着いた。

 最先端のエンジンと車を設計する能力によって、ポルシェ氏はアウストロ・ダイムラー(Austro-Daimler)やメルセデス(Mercedes)といった有名自動車メーカーで昇進し、次々と重要な役職に就いた。

 一方、ヒトラーは1933年にドイツで政権を掌握すると、すぐにポルシェ氏に「大衆車」を設計するよう依頼。これがVWビートルの原型となる。

 チェコ・テレジーン記念館(Terezin Memorial)の歴史学者ヤン・バイスケブル(Jan Vajskebr)氏は「ポルシェ氏は活動的なナチ党員で、ヒトラーと非常に良好な関係を築き、その関係を自分の事業を進めるために利用した」と解説している。

 ヒトラーに勧められてポルシェ氏は、1935年にチェコ国籍を放棄した。それは故郷がナチス・ドイツに占領される4年前のことだった。バイスケブル氏によると「(国籍を放棄するのには)3秒もためらわなかった」という。ポルシェ氏は戦後、1年10か月を刑務所に収監されて過ごし、1951年に死去した。

 ポルシェ氏の死から4年後、100万台目のビートルが生産された。その後、計2300万台のビートルが生産され、史上最も多く販売された車の一つとなった。

 ポルシェ氏の「功績」も、故郷ではナチスとの過去を常に打ち消せるわけではない。ペトル・イラスコ氏は、町の記念施設ではポルシェ氏とヒトラーの関係すべてを公開すべきだと主張する人々の一人だ。「彼はナチだった。歴史書は嘘をついていない」と憤る。

 一方で、年金生活者のミノスラフ・シュピードレン氏は「ポルシェ氏はすべてのドライバーが感謝することを成し遂げた。どんな人物だったにせよ、評価はする」との意見だ。

 ビール醸造所に自前のポルシェ記念館を作ってしまった自動車コレクターで、バス運転手のミラン・ブンバ氏は「ポルシェ氏に選択肢はなかった。ヒトラーがポルシェ氏を選んだんだ。ポルシェ氏が拒んでいたら、彼の人生は強制収容所で終わり、何も成し遂げられなかっただろう」と話し、ポルシェ氏は「車の開発に興味があっただけで、周囲で起きていることは見えていなかったんだと思う」と語った。(c)AFP/Jan FLEMR