【2月21日 AFP】反政権デモと警官隊との衝突が激化し、3日間で約100人が死亡したウクライナ。首都キエフ(Kiev)で親欧州連合(EU)派が3か月にわたって続けてきたデモはなぜ、この数日で流血の事態へと陥ったのだろうか。経緯をまとめた。

■今回の衝突の発端

 デモ隊と警官隊との激しい衝突が始まったのは18日朝、憲法修正案が協議される予定の議会議事堂に向けてデモ隊が行進しているときだった。デモ隊は石や火炎瓶を警官隊に投げつけ、警察側がゴム弾やスタングレネード(閃光手投げ弾)で応酬する中、与党・地域党(Party of Regions)の党本部に突入した。

 警官隊は同日夜、デモ隊がバリケードを築いて占拠している独立広場(Independence Square)に突入し、一部を占拠。翌19日は主ににらみ合いの状態が続き、夜には「停戦」が宣言されたが、20日朝になると警官隊は敗走を強いられた。

 警察側は、スナイパーから狙撃を受けたためデモ隊に対して実弾を使用したと主張している。野党側の医療筋によると、20日の衝突では60人以上が死亡した。

■危機の原因は

 キエフでは昨年11月末、ロシアとの経済協力強化を進めるビクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領がEUとの連合協定締結協議を停止したことをきっかけに、大規模デモが相次いだ。

 警官隊の暴力的な取り締まりで数十人が負傷した結果、デモは激しさを増し、12月には数十万人が街頭に繰り出し得てヤヌコビッチ大統領の辞任を求めた。

 その後、野党指導者らと大統領との協議が突破口を見いだせないまま続く中、極右組織「右セクター(Pravy Sektor)」や「Spilna Sprava」などの過激派グループがデモ隊内部で台頭し、複数の政府庁舎を占拠した。