【8月29日 AFP】アフリカ北東部エリトリアの首都アスマラ(Asmara)は、他のアフリカ諸国にはない斬新な建築物を誇る。これらは、エリトリアがイタリアの植民地支配を受けていた時代の遺産だ。当時、イタリアから植民地へ渡った建築家たちは、自国ならば前衛的過ぎると批判されるような自由な設計も許された。

 アスマラの驚くべきモダニズム(近代主義)建築には、急上昇する飛行機を模したガソリンスタンドや、色ガラスを格子柄に組み合わせた窓が特徴の独創的なボーリング場などがある。

 アスマラ市当局の都市設計家、メダニエ・テクレマリアム(Medhanie Teklemariam)さんは「アスマラは生きた建築博物館だ」と話す。30年間にわたるエチオピアからの独立紛争で入植地がことごとく破壊された中、アスマラの建築物の多くは難を切り抜けたが、現在、建築物の保存・修復計画は滞っており、エリトリアの豊かな文化遺産が損なわれる恐れがある。

 テクレマリアムさんは「すべての建築物の大規模修復を行うのは非常に困難だ。第1に資金の問題、第2に技術的能力の不足が課題となっている」と説明した。それでも同氏は、国連教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)世界遺産への登録を働き掛けたり、欧州連合(EU)が支援する建築物修復プロジェクトの再開を目指すなど、変革を求めている。

 アスマラの建築物の大半はイタリアの独裁者、ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)のアフリカ大陸における植民地拡大計画の一環として1936~1941年に建設された。アスマラはかつて「ピッコラ・ローマ(Piccola Roma、小さなローマ)」と称された。1939年の人口調査では、アスマラの全市民9万8000人のうち5万3000人がイタリア人だった。イタリアから呼び寄せられた建築家は、保守的なヨーロッパではひんしゅくを買うような革新的な設計を試みることを奨励された。こうしてアスマラは「遊べる実験の地」として評判を得て、現在でも奇抜なデザインが住民に受け入れられている。建築物の多くは植民地時代に強制労働を課された同胞によって建てられたものであるにもかかわらず、エリトリアの人々は建築物を高く評価し、ユニークな都市を誇りに思っている。

 写真家でアスマラについての著書もあるエドワード・デニソン(Edward Denison)さんは、建築物によって、停滞するアスマラの観光業を復興させることができると期待する。幸いにも開発のペースが遅いおかげで、アスマラには多くの古い建築物がそのまま残っており、その大半は独立紛争が始まった1961年から手つかずのままだ。

 だが、エリトリアの確固とした独立独行の信念が一因となり、こうした建築物の保護活動は進んでいないのが現状だ。建築家で文化遺産の保護などについての著書もあるデニス・ロッドウェル(Dennis Rodwell)さんは、外部の支援は「好機というよりもむしろ脅威」とみなされることがあると指摘する。

 世界銀行が500万ドル(約4億8800万円)の資金提供を行った文化遺産保存修復プロジェクトは、資金が底を突いて2007年に終了し、同行とエリトリアの関係も気まずくなった。また、欧州連合による建築物修復プロジェクトのための財政支援は再検討のため凍結している。

 写真家のデニソンさんは、外部との協力体制を強めることで文化遺産保護の取り組みを改善することができると話す。デニソンさんは、独立闘争の解放戦線出身のエリトリアの指導者たちが「独立独行と国際的な協力」との平衡を保つことに長い間、苦慮してきたことに触れた上で、エリトリアの豊かな建築遺産が保護されることを期待していると述べた。(c)AFP/Jenny VAUGHAN