【7月3日 AFP】51年前の1962年6月26日、反アパルトヘイト(人種隔離)活動家だったネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)氏は、ハイレ・セラシエ(Haile Selassie)皇帝の統治下にあったエチオピアに、ある目標を胸に入国した――武装組織の司令官として軍事訓練を受けることだ。

 当時アフリカ民族会議(ANC)の平和的な抗議活動はほとんど成果がなく、政府とANCの双方が強硬姿勢を取っていた。南ア大統領にその後就任するマンデラ氏は、今でこそ世界で平和と和解の象徴になっているが、当時は武器を取るべき時期が来たと確信していた。

 マンデラ氏は回顧録の中で「運命的な一歩だった」と述べ、「兵士だったことも、戦闘に参加したことも敵に発砲したこともなかった自分だが、武装組織を立ち上げる任務を与えられた」と振り返った。この武装組織がANC傘下の「ウムコント・ウェ・シズウェ(Umkhonto we Sizwe、民族の槍)」となる。

 マンデラ氏はまず、元来の学問的なアプローチを試みた。キューバ革命の活動家エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)、中国共産党の毛沢東(Mao Zedong)、後にイスラエル首相に就任するメナヘム・ベギン(Menachem Begin)の著作を読み、英国とオランダ系ボーア人(アフリカーナー)が戦ったボーア戦争で、英国に対するアフリカーナーのゲリラ戦が成功した事例があった点に傾倒した。

 ただ、マンデラ氏は学習では決して十分ではないことをすぐ認識し、言葉はいったん脇に置き実践に出た。62年1月から7月まで、「デビッド・モツァマイ(David Motsamayi)」の偽名で新たに独立したアフリカ諸国を訪問し、支持と資金を集めた。

 ロンドン滞在後、マンデラ氏は先に訪れたエチオピアに戻り、8週間の軍事訓練を受けた。自動小銃と拳銃の撃ち方や、迫撃砲の取り扱い、爆弾や地雷の製造に加え、こうした武器を回避する方法も習得した。

 マンデラ氏の回顧録によると「プログラムは骨の折れるものだった。午前8時から午後1時まで訓練を受け、シャワーと昼食の休憩時間の後、午後2時から4時までまた訓練があり、4時から夜にかけては軍事科学の講義を受けた」、「自分が兵士に変わっていく感覚があり、兵士のように思考するようになった。政治家とは全く異なる思考だった」という。

 ただ、武力闘争の決定は、ANCにとって運命的なものとなったと同時に、マンデラ氏自身にとっても運命的なものとなった。同氏は南ア帰国直後の62年8月5日に拘束され、不法出国などの罪に問われた。拘束期間中には、破壊工作や武力による政府の転覆を企てたとする罪状が新たに加わった。

 マンデラ氏は27年間にわたって獄中生活を送り、アパルトヘイト政策を施行していた当時の南ア政府や西側諸国の指導者らからテロリストとの汚名を着せられることになる。(c)AFP