【4月13日 AFP】「彼女の名前はジャンヌ。髪は焦げ茶色で普通の娘だった。だが、何としても彼女を見つけないとならないんだ」

   ニコライ・バセニン(Nikolai Vasenin)さん(93)はソビエト赤軍の元兵士で、第二次世界大戦ではフランスのレジスタンスのために戦い、戦後はソ連の強制労働収容所に囚われた。そして今、60年前に失った恋人を探している。「私は93歳だ。もう待ってはいられない」

 バセニンさんの人生は波乱に満ちていた。ナチス(Nazis)・ドイツに捕らえられ、収容所から脱走し、フランスのレジスタンスに合流した後、帰国したソ連で再び収容所に入れられた。レジスタンスの指揮官の娘だったジャンヌさんはまだ生きているとみられるが、バセニンさんは彼女との再会という人生最後の使命をまだ果たせていない。

 1919年生まれのバセニンさんは、1941年6月にアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)がソ連に侵攻するとすぐに赤軍に徴集された。だが同7月9日、バセニンさんの部隊は現在のベラルーシの首都ミンスク(Minsk)付近で包囲され、負傷していたバセニンさんは他のソ連兵40万人と同様、ナチスの捕虜となった。その後、独ニュルンベルク(Nuremberg)の収容所から脱走を試みて失敗し、ドイツ占領下にあった仏南部ドローム(Drome)県の強制労働収容所へ送られる。

 1943年10月、何とかして収容所を脱走。現地で仏地方部のレジスタンス組織「マキ(Maquis)」の一隊に合流する。「フランス語は全く話せなかった。マキは初め私を信用しなかった。だが、最初の戦いでの私を見て態度が変わった」。バセニンさんは露中部ウラル山脈(Urals)の自宅からAFPの電話取材に応じ、こう語った。

 まもなく若きバセニンさんは25人強の部隊を率いることになる。この隊は後にバセニンさんの名を取って「ニコラ隊」と呼ばれた。露国営ラジオ「ロシアの声(Voice of Russia)」のために「ロシア人マキ」ことバセニンさんについて取材したフランス人記者ローラン・ブラヤール(Laurent Brayard)氏によれば、バセニンさんはドローム県北部でナチスと戦った。「マキザール(マキ隊員)たちの戦い方は変わっていた。作戦の前にはコーヒーを飲み、昼食時には家に戻っていた」とブラヤール氏。「ニコラ隊」は、暗号化された電報を使い、レジスタンスに武器を供給していた英国軍と接触していた。

■指揮官だった父親に反対されて

 ある時、足を負傷したバセニンさんは、指揮官だったジェラール・モノ(Gerard Monot)氏の家へ連れて行かれ、そこで指揮官の娘、4歳年下のジャンヌさんから看護を受けた。

 1944年9月、英米軍が到着するとバセニンさんはパリへ行き、ソビエト軍参謀本部に出頭しなければならなかった。「出発する前、私はジェラールにジャンヌとの結婚を願い出た」とバセニンさんは回想する。「指揮官は断固として反対だった」。3人の間では激しいやりとりがあったが、最終的にバセニンさんは去るしかなかった。「たぶん私が貧しかったからだろう。ジャンヌは…彼女は悲しがっていたが、父親が怖かったんだ」

 欧州での終戦直前の1945年春、バセニンさんはソ連の黒海沿岸の港町オデッサ(Odessa)に到着したが、そこですぐに逮捕された。戦争捕虜から解放された多くのソ連兵が経験した残酷な運命のいたずらだった。バセニンさんは「反逆罪」でグラグ(Gulag)と呼ばれる強制労働収容所への15年の収容を言い渡されたが、数年後には早期出所し(正確な時期は記憶にない)、今度はシベリア(Siberia)への国内流刑が命じられた。刑期が終わる時、バセニンさんは受刑者たちが働いていた鉱山を訪れていた地質学者のジナイダ(Zinaida)さんと結婚し、3人の子をもうけた。

 旧ソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)氏のペレストロイカ(改革)時代にバセニンさんは社会復帰。その後間もない1991年末、ソビエト連邦は崩壊した。5年前に妻のジナイダさんが亡くなって以降はエカテリンブルク(Yekaterinburg)近郊ノボベレゾフスキー(Novoberezovsky)の小さなアパートに一人で暮らしている。

 バセニンさんの話が初めて公になると、2005年にはフランスの最高勲章、レジオンドヌール勲章(Legion d'Honneur)を授与された。ドローム県の元マキザールで唯一存命のバセニンさんは、少なくともジャンヌさんと再会するまでは死ねないと語る。フランス語で憶えているのは「ジュテーム(愛しています)」という言葉だけだが、「それで十分だろう」。

 バセニンさんの人生の締めくくりはハッピーエンドとなるのか──それはまだ分からない。しかし、ジャンヌさんとの再会を果たさせようと、友人や親戚がすでに仏当局に接触してくれている。(c)AFP/Marina Lapenkova-Maximova