【3月19日 AFP】米軍主導のイラク進攻から10年が経過したが、同国内では何年も止まない暴力と現在の政治階級に対する侮蔑が、多国籍軍によって打倒された故サダム・フセイン(Saddam Hussein)大統領への郷愁を煽っている。

 首都バグダッド(Baghdad)ではフセイン元大統領や旧フセイン政権とのつながりは非難され、政治家らに汚名を着せる口実とされているが、バグダッド北方の元大統領の地元ティクリート(Tikrit)では違う。

■止まぬ抗争、進まぬ復興

 無数の国民の殺害を指示したフセイン元大統領だが、ティクリートの住民らは、失われて久しい国内情勢の安定をもたらしていたのは元大統領だと振り返る。市内で腕時計を売る男性、ハレド・ジャマルさんは「これからもずっとサダムを誇りに思っているし、忘れることはない」と語る一方で「この10年間、この国には変化も発展もなかった」と嘆いた。ジャマルさんがぶつけたように遅々として進まない復興へのいら立ちに加え、ティクリートに限らず多くのイラク人は、基本サービスの欠如と高い失業率にもさらされている。

 ジャマルさんは誰もが挙げるもう一つの批判も口にした。旧フセイン政権の崩壊以来、宗派間の抗争が明らかに増えた点だ。「(以前は)スンニ派(Sunni)とかシーア派(Shiiite)とか宗派間の抗争はなかった。それが今では、誰かと知り合いになった時に最初にする質問がそれだ」。相手の宗教的背景を探るためによく使われるのが、出身地を尋ねることなのだと言う。

 現在は非合法化されているバース党(Baath Party)の活動家として頭角を現したフセイン元大統領は、1968年に同党がクーデターで政権を握った際、すでに幹部だったが大統領に就任したのはその11年後の1979年。非アラブ国であるイランに対する「アラブの指導者」を自負し、国内的には世俗主義を掲げたが、自分に反対する者は容赦なく弾圧し、1988年のクルド人虐殺事件(アンファル作戦)や91年湾岸戦争(Gulf War)後の蜂起鎮圧などで何十万人もの人々が殺害された。

 国際的には80年代に8年に及んだイラン・イラク戦争で大きな痛手を負い、90年のクウェート侵攻は米軍率いる多国籍軍に撤退させられた。その後、イラクは度重なる制裁や禁輸措置を科され、03年の米軍主導のイラク進攻時には国際社会で敵視される存在となっていたフセイン元大統領は04年に身柄を拘束され、06年12月に死刑を執行された。

■今も困難続くからこそ「サダムが懐かしい」

 しかしティクリートでのフセイン元大統領は、イラクのために戦った指導者としてより好意的に記憶されている。特にフセイン政権崩壊後の抗争状態からみれば比較的、国内情勢が安定していた時期に頂点にあった指導者としてだ。国内の他地域、特に南部の都市は苦しめられた一方で、元大統領はティクリートを優遇したため、この街には元大統領の影が色濃く残っている。

 激しい宗派間抗争で何万人もの犠牲者が出た03年後の混乱を生き延びた住民らは、暴力が治安部隊の手に集中し、表向きには国民の怒りが抑え込まれていたイラク戦争前の時代を回想している。

 かつては公共サービスが不足し、電力が全面供給されていたのは首都バグダッドだけで他の地域では行き届くに程遠かったが、国連の禁輸措置が発動されていた時代には、フセイン政権への反発を抑制するために食料配給制度が実施されていた。

 一方で今、イラク国民は個人用発電機でかなりの電力不足を穴埋めし、働き口は依然少なく、汚職は横行し、民主的に選ばれた現在の指導者に不満を持つ声も聞かれる。

 ティクリートで学校教員をしている37歳の女性は「今の政治家に感謝している」と皮肉を込めて語る。女性は依然、多くのイラク国民が苦難を余儀なくされ、不満を感じているからこそ「サダムを支持できるし、誇りに思える。あの時代が懐かしい」と話した。(c)AFP/Salam Faraj