【12月30日 AFP】東日本大震災があった2011年の年の瀬、日本人の多くはショックも冷めやらぬ中で新年を祝う準備を進めているが、福島第1原子力発電所の事故を受けて故郷から遠く離れた地での越年を余儀なくされている避難民にとって、祝うものなど何もない。

 都内の36階建ての国家公務員宿舎に入居した福島からの避難民1000人は、口々に、正月を迎えても憂鬱(ゆううつ)になるばかりだと話す。

 4月に入居した元教員のタカハシ・ユウジさん(68)は「明けましておめでとうなんていえない。おめでとうじゃない」と話す。正月と言えば、福島第1原発から6キロの距離にある富岡町の自宅に親戚一同が集まり、自家製の野菜で作ったおせちをつつきながら酒を酌み交わすのが常だった。

「にぎやかで楽しかったんだけど、ことしはできない。ぜんぜん違う人生になっちゃった」

「こういう生活がいつまで続くのかわからない。これが一番ストレスがたまる。帰れないなら帰れないって政府がはっきり言ってくれれば・・・覚悟はできているんだから」(タカハシさん)

■「帰れますよと言われても・・・」

 事故を起こした福島第1原発について、野田佳彦(Yoshihiko Noda)首相は今月16日、冷温停止を宣言。21日には、廃炉完了に最長で40年を要するとの発表があった。

 津波で家を失った浪江町出身のササキ・シゲコさん(61)は、避難民を海岸近くの宿舎に収容するという政府の無神経さに腹が立っている。

「水が一番こわい。なんで津波で家が流された私のような人にこんな海に近いところへ住めというの?最初はこんなところ住めないと思った」

 10か月近くがたち、自分の人生をずたずたにした海を見るのも慣れてきた。だが、将来に対する不安は尽きない。政府は、早くて2013年4月には避難所を閉鎖すると明言している。

「落ち着くところを探さないといけない。せっかく交流ができたのに、またばらばらになっちゃう」(ササキさん)

 政府は、福島第1原発から半径20キロ圏内の警戒区域について、来年4月、被ばく放射線量に応じて新たに3つの区域に再編する計画だ。

 将来にわたって居住は不可能と分類される地域もあると見られる中、南相馬市のミサワ・コウゾウさん(69)の場合は、自宅も経営する食堂も居住「可能」区域となる見通しだ。だがミサワさんは、コミュニティー自体が崩壊しているのに、戻れと言われても・・・と複雑な胸中をのぞかせる。

「『皆さん、収束しました、はい、帰れますよ』と政府は簡単に言うけど、どうやって生活していくのか」

 ミサワさんは、例え警戒区域が緩和されても、街を形成している店や飲食店、病院の多くは閉鎖されたままだろうと考える。既に多くの家族が、未知の健康リスクを恐れ、帰還しない決意を固めている。

 ミサワさんは、店を再開することは考えていないが、避難指示が解除された時に自宅に戻るかは決めかねている。

「先が見えないのが一番つらい。中ぶらりんの生活が重荷になってきている」

 年賀状を出す予定か尋ねてみたところ、「ことしは年賀状は出さない。明けましておめでとう、という状態じゃない」とミサワさんは答えた。(c)AFP/Shingo Ito