【12月7日 AFP】真珠湾(Pearl Harbor)攻撃から70年となる今年、第2次世界大戦(World War II)中のカナダの強制収容所跡を再訪した日系人たちがいた。

 1941年12月8日(現地時間7日)、米ハワイ(Hawaii)・オアフ(Oahu)島の真珠湾にあった米海軍の主要基地に対する日本軍の攻撃は、米国を参戦へと突入させたが、同時にカナダでも数万人の日系移民とその子孫たちの運命を変えた。

■「第5列」と呼ばれて

「第5列」(「味方の中の敵方勢力」を意味する語)と呼ばれた日系人たちは市民権を剥奪され、ロッキー山脈(Rocky Mountain)の奥深いブリティッシュ・コロンビア(British Columbia)州の強制収容所か、アルバータ(Alberta)州やマニトバ(Manitoba)州、オンタリオ(Ontario)州の強制労働収容所へ送られた。
 
 雪を冠した山脈の針葉樹林の陰にひっそりとログハウスが並ぶブリティッシュ・コロンビア州、ニューデンバー(New Denver)村。ノビー・ハヤシ(Nobby Hayashi)さん(83)は1500人の日系人と共にここに3年間、収容されていたときのことを思い返した。「小屋ごとに2家族がいた。1部屋に1家族。1942年の冬を過ごしたテントよりは広かった。わたしたちが着いた時には、ここには何もなかった」

 室内の備品も最低限だった。断熱もされておらず、2段ベッドとテーブルがひとつ、いす数個、暖房と煮炊き用を兼ねた薪(まき)ストーブが1個あるだけだった。

■「日系人は国家の安全に対する脅威」

 ロッキー山脈内の別の収容所にいたアイリーン・ツユキさんはこう語る。「真珠湾攻撃の前に父が(バンクーバーの)病院に入院していました。毎日見舞いに行く母に向かって父は、お医者さんや看護師さんにどんなに良くしてもらっているかを話していた。けれど12月7日に母が行くと、父はとても取り乱していた。突然、誰も口をきいてくれなくなり、それがどうしてなのか、父は分からなかったのです」

 真珠湾攻撃は米国同様、カナダ国内にも強い反日感情を巻き起こした。カナダの世論は、日系人の強制収容を命じ「第5列」を無力化するよう政府に迫った。1942年2月24日、日系人は国家の安全に対する脅威だと宣言された。

「カナダ政府は日本人をスパイだとみなしていました」と、家族と一緒にアルバータ州の収容所に送られたエミコさんは言う。そうしたキャンプへ収容された日系カナダ人は約2万2000人。彼らの資産は国によって没収され、売却されて彼ら自身の収容所の経費にあてられた。

 ハヤシさんに、ある観光客が何故逃げようとしなかったのかと尋ねた。ハヤシさんは一瞬間を置いてから「命令にそむくというのは、日本人の精神性の中にない。(それに)わたしたちはみんな、登録されていた」と答えた後、「それにどこへ逃げられるのか。周りは山に囲まれているのに」と語った。

■40年かかった政府の正式謝罪

 大戦が終わると、カナダ政府は日系人たちにふたつの選択肢を与えた。太平洋岸つまり日本とのつながりから遠いロッキー山脈以東のカナダ国内に留まるか、日本へ帰るかだった。移民たちの一部は子どもがカナダで生まれており、祖国へ帰るという選択肢を難しくした。それでもツユキ家を含む日系人4000人は、今でも彼らが「取るに足らない」と呼ぶ額の補償をカナダ政府から受け、日本へと向かった。

 アイリーンさんは4年後にカナダへ戻ったが、カナダ政府が日系人の強制収容に謝罪を表明するまでにはもう40年かかった。1988年9月22日、カナダ政府は第2次大戦中の日系人に対する不当な扱いについて正式に認めた。

 ニューデンバー村訪問の終わりに、再訪してどう感じたかと聞かれたハヤシさんは、こう答えた。「わたしにとって唯一、あれを忘れることができる方法は気持ちをぶちまけ、あらいざらいすべてを話すことなのです」(c)AFP/Laurent Vu The