【5月9日 AFP】風化した石碑に刻まれた大津波の教訓が、リアス式海岸に住む人々に先人の警告を静かに伝えていた。

 岩手県・重茂半島、姉吉地区の住民は3月11日、東北大震災による巨大津波が高台の下の漁港を襲った時に自分たちが難を逃れたのは、中腹の林の中に建つ石碑のおかげだと思っている。

「高き住居は児孫の和楽」――高台にある家は子孫に平和と幸福をもたらす、と記された碑は、太平洋に面するリアス式の三陸海岸で数千人の死者を出した1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波の後に建てられた。碑の文句は「想へ惨禍の大津浪(大津波の災いを忘れるな)此処より下に家を建てるな」と続く。

 姉吉はさかのぼって1896年(明治29年)にも明治三陸大津波に襲われている。明治の大津波では2人、昭和の大津波では4人しか生き残らなかった。昭和三陸大津波の後、この小さな集落は石碑が建つ位置よりも高台に再建された。代々、海草や貝を育てて生計を立ててきた漁村の人びとが、以降は碑よりも高い場所に住んできた。

 このふたつの津波を引き起こしたのは、どちらも沖合を震源とするマグニチュード(M)8.0よりも強い地震だったが、それでもM9.0だった東北地方太平洋沖地震に比べれば地震の規模は小さかった。今回の津波で姉吉では、海水が狭い入り江に一気に入り込み、日本で過去例を見ない最高39メートルの高さにまで水がせり上がった。

 人口過密気味の日本にあって、多くの人びとが海にさらされた沿岸部に住むことは避けられないが、現在わずか11世帯の姉吉地区は、先人の警告に従うことができた。代々住んできたマエカワケイさん(40)は、こういう小さな教えを守りながら共に暮らしていくことが、姉吉のような小さな集落にできる唯一のことだろうと語った。

■想像を越えた巨大津波

 しかし、壊滅的な被害を受けたこの沿岸には、想像を絶する高さに至った津波によって、過去の津波の恐ろしさを戒める石碑さえもが破壊されてしまったところもある。

 同じ岩手県の大槌町。ササキイサオさん(73)が経営する料亭の前に並んでいた明治、昭和の三陸大津波の碑は、今回の津波でがれきとなってしまった。

 ササキさんも子どもの頃から津波がどれほど恐ろしいものかを聞かされて育った。流されないようにと、着物の帯で家の柱に自分をくくりつけた人たちの話や、近所の池に多くの遺体が折り重なっていたことなど・・・。ササキさんの妹のコヤマセツコさん(63)は、地震があるたびにみんなが走って、近くの井戸の中をのぞきに行っていたのを憶えている。井戸の水位が下がっていればそれは津波の予兆だからだ。
 
 言い伝えや先人の知恵があった漁業の町、大槌でさえ今回、住民1万5000人のうちの1割以上が亡くなった。津波がどれだけ恐ろしいものかはみんな分かっていたが、これだけの巨大津波が来ることは想像していなかったとササキさんは言う。お年寄りを助けようとした人や、自分の子どもを探しに行った人たちほど逃げ遅れ、津波に巻き込まれた。

 しかし、高台から静かな海を見下ろす姉吉の集落でも今回の地震で悲劇は起きた。地震の直後、車で学校へ子ども3人を迎えに行った30代の女性は、帰りに海沿いの道を使い、親子ともども巨大な波に押し流された。亡くなった女性の親族の男性は、石碑が姉吉地区を救ったことが有名にはなったが、明るい面ばかりではないとうつむく。30人の集落で4人の住民が亡くなった─―石碑の知恵を喜んで語るわけにはいかないと男性は語った。(c)AFP/Harumi Ozawa